忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 尊厳死について

 このことについて議論を始めなければといった政治家がいると聞いた。

 彼の問題設定が奈辺にありや?そこがはっきりしないうちはなにもいうことが特になし。これこそ、どういう問いの立て方をするのか、その過程でどんな議論がなされるのかが大事なのかと思う。結論とか、特に期待せず。

 死の問題を国家が制度化するとき、どういう理路をたどるのか。そこは関心がある。なので、ぜひ議論はしてもらいたいと思う。

 制度化されようが、されまいが、自分のこととして考えたとき、自分が尊厳死を望む日がくるだろうか?それもわからない。

 西部邁の時、どう報道されていたのだろう?もう記憶にない。

 

 

 三島由紀夫の死は神格化されているようで、見ているこっちになんだか居心地の悪さを感じさせるものがある。三島に文句を言いたいわけではない。彼の死になんらかの意味付けをし、語るひとの口ぶりに奇妙な感覚をおぼえるのだ。それでも、そういうこともそのひとの勝手だろといわれれば、そうなのかもしれないな。

 

 「不良品同士で殺しあってくれ」という発言を知った時も・・・ただ、芸能人の発言については、この種の発言を踏み込んだ発言ともてはやすほうに問題があるのではないかと思う。テレビのコメンテーターの中には真剣にそういったことを主張したいひともいるのかもしれないが、レギュラーで出ているひとのほとんどは特に主張したいことはないが、発言を求められたので言った以上のものではないのか?いちいちそういうものに反論しても仕方がないし、そういう反感をもつのもなんだか好きじゃないので自分はテレビを見なくなった。

 

 尊厳死の話とは直接かかわりないことを書いてしまったけど、いずれにもしても自分にははっきりしたことが言えない。自分の死というものが自分で決めていいものだとはっきり言えないのだよね。犬に先立たれたとき、ぼくはすこし犬のことをずるいなと思ってしまったわけだ。おいていきやがってと。でも、時がたてばその気持ちも薄らいできたというか。諦めかな。

 

  なんだか知らんけれど、カチンときた言葉。

 生きることを目的するな。生きることは人生を楽しむ手段だ。目的にしたとして人はいずれ死ぬので負けるゲームをするようなものだ。

  こんな内容だった。なにに頭きたのか?こんなの頭で考えた理屈だよってところか?目的と手段ということばをつかった言葉遊びじゃないかと。そんな理屈とは関係なしに、ただただ生きているんだ。で、ただ漠然といきているだけなのに、面白いこと、悲しいこと、うれしいことに出会う。書いていても不思議だが、実際そうなのだ。

 ことばを捨てて砂漠に行くことができないぼくがこんなことをいっても仕方ないのか・・・

 

 コロナ禍

 ますますよくわからない。

 感染判明者が増えたのは、検査を増やしたということ?で、現状はそれほど危機的な状況ではない?

 夏にマスクをすることになるとは・・・・もとからマスクをすることに抵抗はなかった。冬は暖かいのですることが多かった。予防の効果がそれほどないと分かって以降もマスクはしていたな。メガネが曇るのが少し面白くて。という感じだったが、夏にマスクは嫌だな・・・・ますくしたくないなら、外出を控えるしかないのか・・・・夜の散歩でも人目を気にしてマスクしてるのだけど、けっこうつらいな。

 NHKでやっていた病院の統廃合はどうなるの?という疑問。なにか具体的なことは決まっているのだろうか?