忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日の続きとか 

 なんだかんだでだらだらと過ごしてしまった。いつも通りといえば、いつも通り。予定の半分も読書は進まなかった。

 

 吉本のいう「文学の初源性」について

 恋の真っただ中にあるひとに、あるいは、今日死ぬか、明日死ぬかと悩んでいるひとに文学作品を目の前に持ってきても、多くの作品にはそれに向かわせるだけの力がない、つまり文学にはそんな力はないぜ、と吉本は言い切ってしまう。

 ただ、そこで彼のことばは終わらない。続きがあるのだ。一級の作品にはそれでも日常のひとびとの生活の中で感じる切実さに向き合えるだけの、匹敵するだけの力があるという。で、その力の淵源が文学の初源性なのだ。文学の初源性とは「それ自体が高級なわけではなくて、いくらでも低級になりえます。低級というか通俗的な読み物にある倫理観、善悪観にもなってしまいますから、必ずしもそれが高度だということではありません。しかしそれを高度にもっていったものがあるかないかは大変重要な区別であり、それを感じるか感じないかも重要な問題だとおもいます」(『夏目漱石を読む』p.123)と述べている。文学がある種の救いになるみたいな言い方にならない。また、感じる、感じないは読者側の問題であり、そこは大事なことのように思われる。当たり前のことだが、いくらそういうことが書かれいてたとしても、つまるところは読む人がいないと始まらない。

 それと、この文学の初源性というのはいわゆる「文学の普遍性」みたいなものとは違うように思う。国境を、時代を超えてなんとなく読めてしまうみたいなものも大事だとは思うが、きっとそいうものとはあまり関係はない。

 まあ、かれのいいたいことはなんとなく、わかるような、わからないような。ともかく、あれはそうか?これはそうか?とたまにぼくはこのことを妄想しながら、小説だけなでなく、あらゆる文章を楽しんでいる。いや、文章だけでなく映像とか絵も。

 

 大事なことを書き忘れた。漱石の作品の中では『虞美人草』だけが文学の初源性をもっている、と吉本はいう。

 『安達としまむら』にもやっぱ、これはあると思う。まあ、ぼくの好きな場面にこじつけるわけだが、島村を見ていない時に見せる安達の美しい瞳に島村がきづく場面だ。9巻までに2か所ある。この場面がいいのはだれも気づいていない安達のよさに島村だけが気づいている感じ。安達には島村しかいないし、島村には安達にしかいない、そう感じさせてくれる。

 

 言い切ってしまう吉本

 『夏目漱石を読む』の中でもあまり詳しいことは書けないだけれど(ぼくにはちょっと書くのがはばかれるため)、頭がいいのは病気みたいなことを言いきってしまう。これが吉本なのだなと思う。病的とはならない。

 このかれの視線は確かなものというか、かれの物事の認識の仕方に関係があると思う。『反核異論』でもそうだった。その他に印象的だったのは、新興宗教に家族の誰かが入ったとして、そのときに家族なんて役に立たない、すくなくとも吉本がその立場におかれたら何もできないみたいな話、あとは晩年の原発に関する発言も。

 こうした発言に対してぼくは間違っているか、どうかを判断することはできないが、とくに違和感をおぼえるみたいなことはなかった。違和感がないというのはかれらしい発言だと思ったのだ。

 なので、ぼくよりもだいぶ年上で失礼な物言いになることは承知だが、団塊の世代でかれの発言を無視したり、ボケたみたいなことをいうひとに対してむしろ違和感がある。

 

 当時をぼくは知らないので

 漱石論として吉本は江藤淳のものをほめている。このふたりが漱石をテーマに対談とかしているのだろうか?

 あとは芥川龍之介の「後進国における開化」の問題としての漱石みたいな見方を吉本は支持している。このへんがぼくにはぴんと来ない。いや、書かれていることはぼんやりとは分かるのだが、こういう見方こそ時代が経つにつれ、薄れてしまうような気がするので、だれかが節目節目に言及していくのか?節目っていつだよって思うが。

 

 昨日「作為」と書いて気になったこと

 丸山眞男荻生徂徠論ってどんな内容なのだろう。

 芥川の話にもつながるのかもしれないが、明治とか大正とかが歴史の話ではなく自分たちの生きた時代、あるいは、その時代を感じることができた世代ってのはせいぜい1960年代生まれくらいまでかしら?ぼくなんかにはその感覚がないわけで。ぼくはツイッターをやらないが、のぞかせてもらっているとやっぱり感覚の違いみたいなものを感じる。この感覚の有無みたいなものは面白い。

 ぼくの母方のじーさまは『樅ノ木は残った』を勧めてくれたのだけれど、もしかして、母方は賊軍だったから、西郷の話をする幼少のぼくに辟易としてたのだろうか。そんな様子はこれっぽちもなかった気がする。うーん、昔のこと過ぎて記憶にないだけかもだ。

 

 漱石の理想の女性像

 均質な性の認識の世界に漱石は生きていて、そこに女性性なり男性性が入り込んでくると吉本は解釈している。そして、その女性性が入り込んだとき、理想の女性像を読み取ることができる。

 理想の女性像については不明だが、ぼくには吉本もその世界の住人に見えた。もしかしたら、フランシス子が理想の女性像なのかもしれないとは思った。