忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

記録というか、記憶というか、そんな感じの

 今日は髪を切ろうと思って、外出してみたら意外と混んでいるようで、中途半端に時間が空いてしまったため。コロナ禍の記録を残しておこうと思う。

 緊急事態宣言が延長されることが決まった。そうすると案の定、この延長は世論が望んだものだという意見がネットでも出てくる。たしかにそうなのかもしれない。でも、その世論ってやつは不思議なものじゃないか?

 まず、世論が延長を望んでいるのか、どうか?ぼくにはよくわからないが、その見解は正しいということでいい。また、延長が正しい判断であるか、どうか。それはぼくには正直、よくわからない。今あげたふたつのことはひとまず忘れて、世論の不思議なところについて少し文章というか、記録というか、記憶を書き記しておこう。

 もう明確な日付とかはまったく覚えていないのだが、ぼくの住む東京ではある日から街を歩くのにもマスクをするのが当然という感じになっていた。ぼくは今更マスクをすることの是非を問いたいわけではない。ぼくが気になっていることはマスクをして街に出るのが当たり前という世論がどのように形成されたのか?、そのことである。誰かに命令されたわけでもなく、メディアに煽られたわけでもなく、いつの日からか、自然とそういうことになっていたような気がする。機械論的な記述で説明とかできるのだろうか?おそらくできないのではないかと思う。

 で、この度の緊急事態宣言の延長にしても世論が望んだとしても、なにか、いつの間にやらそういうことになっているというのが実相ではないだろうか?なにを言いたいのか?そんなのは決まっている。かりに延長を望んだのが世論という話が正しいとして、そのことを指摘するところで終わるくらいなら、なにも言わないほうがまし、ぼくはそう思う。なぜか?そんなことにはたいていのひとが気づいていて、あえていわないだけだろうから。もし世論について考えてみるべきところがあるとすれば、なぜいつの間にかそうことになっているのか、という不思議なところではないか?世論は間違うとか、国民は馬鹿とか、これまでも散々指摘されてきた。で、それにも関わらず、世論が賢くなることがない点を大衆社会批判する人たちは不思議には思わんのだろうか?しいて思うことがあるとすれば、ぼく自身、戦中のひとを嗤うことはできないということだ。ちっとも昔のひとと比べてもぼくは賢くなっていない。「ぼくは馬鹿だから反省しない、以下略」

 まあ、でもぼくは世論についてはあまり考えてみたいは思わない。これまた、面白くないから。ぼくの不快センサーが反応する。とすると、世論の発生はある種の権力の発動なのだろうか?まあ、よくわからん。でも、大衆社会批判するひとにはそのくらいのことはまず考えてほしいと思うのは失礼にあたるのだろうか?

 

 ※今回の延長について、菅さんには彼なりの政治的な思惑というのはありそう。平素、「空気」づくりに躍起になる日本の政治報道には苦手意識を持っているが、仮に菅さんに思惑があるのなら、政治報道に期待できるのかもしれない?というか、ぼくが鈍いからわからないだけで、多くのひとは彼の思惑に気づいているのかもしれない。