忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

君は酔えない その2

 「君は酔えない」このことばについて考えてみた。

 まず、お酒に酔えるか、酔えないかという話ではないということ。かりにその話だとしても、なぜ酔えないのかという部分が問われるという理解。

 ぼくのことを客観視するもう一人の自分というのがいるのだ。お酒をだれかを飲んでいるとき、だれかが冗談を言ったとして、その時、また別の誰かが笑う。すると、自分も笑っている。そのとき、もう一人の自分がささやくのだ。「今おもしろくないのに笑った?」って。

 こういうことは結構誰にだれにでもありそうだよね。

 で、前回はそれを周りの世界に溶け込めないことを確認する自分という感じと捉えていた。すこし大袈裟に言ってしまえば、草薙素子と同じ。「わたしのゴーストがそう囁いた」目の前にある世界のありようへの違和の表明。みんなが楽しそうにしているのがうまく呑み込めない自分。

 そう考えていたわけだけれど、どうもそういう感じでもない。

 それで、夜道の散歩がてらに葉山隼人について考えているとき、ふと、ある結論に達した。すでに、「葉山隼人について」で書いたので、繰り返しになる。

 「君は酔えない」というのは、疎外から生まれる孤独感の表明ではないだろうかという結論。みんな楽しそうにしているけれど、自分にはちっとも面白くない。これってすごく淋しいな・・・そういう感じだったではないかなと。

 世界への表明が外向きなら、孤独への悲しみは内向き。全く逆の理解をしていたわけだな。自分が世界への表明にそれほど関心がないこととあいまって、今のところ孤独感の表明と考えておくこととする。

 

 で、その時にもうひとつ気づいたことがある。この作品は人知れず抱える孤独にさいなまれる人がうじゃうじゃいることに。

 これはぼくの目が節穴だったということなのだけれど、由比ヶ浜結衣。彼女は周りの目を気にする、空気を読む、そういうことに長じているので孤独感のようなものとは無縁な人物と思っていた。でも、これは相当間違っていた。「本物なんてほしくなかった」実は、あの回のセリフでもこっちのほうが驚いた。由比ヶ浜結衣もひとり孤独にこんなことを考えていたのだな。

 それと、雪ノ下陽乃は自分に似たところのある比企谷八幡を気に入っていたとおもっていたけれど、比企谷よりも葉山のほうが陽乃に似ていたのかなと。比企谷の孤独は積極的孤独ととりあえず命名しておこう。葉山、陽乃は消極的孤独。いや、なんか違うな。うーん、なんといえばよいのか。

 比企谷は嘘くさい連帯は求めない。葉山、陽乃、海老名は嘘くさい連帯を求めしないけれど束縛はされるという感じだろうか。これもなんだか違うな。

 感覚的な言い方になってしまうが、比企谷と雪ノ下は没入感がすこい感じ。なにかに夢中になると、それにまっしぐら。葉山、陽乃、海老名にはそのまっしぐらという感じないと言えばよいのか・・・

 

 3話の冒頭について

 平塚先生の夕方のシーン。あれは卒業後、比企谷との思い出を振り返っていたということか?彼との思い出はさぼっているところを見られたってことなのか。

 

 この作品で描かれる家族について

 まあ、今のところこれは家族を描いた作品ではないと思うので、そこまで気にならないが、『万引き家族』のような描き方をされるときっとぼくはひいてしまうな。血のつながりを超えるという可能性を示しつつ、家族というものを大きく見せようとする感じが苦手だったな。それなら「育て甲斐がない」と言わせる小津安二郎の映画のほうがもうすこし受け入れやすい描写だった。家族の存在の大きさを強調すればするほどにそれでそれで増す苦しみもあるといえばいいのか・・・・まあ、たいていの家族映画はそもそも家族の大切さを伝えるためにつくられるのだから、仕方ないのか。