忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

梅雨入りも近い

 犬がいたときは梅雨入りすると散歩が大変だった。ぼくがというよりも犬が大変そうだった。老いてといっても二十歳までは普通に歩いていたので、とても丈夫な体だったということなのだろうけれど、それでもなくなる2か月くらい前からは歩くのもつらそうだった。最後の梅雨はどのように過ごしたのか。例年とあまり変わりがなかったような気がする。

 

 先日の文章を書きながら気になっていたこと

 吉本のいう文学の初源性について。それはいくらでも低級になりうるが、高度なものにもなりうるという場合の「高度」とはどういうことを指すのだろう?まず、吉本が道徳とか倫理に言及するとき、社会におけるそれらを超えていくものという含みがある。「存在倫理」と呼んだものがそれにあたるのだろう。とすれば、その「高度」というのは「存在倫理」に対応したものと考えればいいのだろうか?

 ひとによってさまざまな意味でつかわれそうだが、「文学の普遍性」とはやはりちょっと違うものな気がする。例えば、日本文学の普遍性というと、まあ、なんでもいいのだが、適当にそこにはもののあはれがあるとか言ってみる。そんな感じのことを言ってみるとたしかにいろいろな作品にそのような傾向を認めることができるだろう。

 ところが、吉本のいう文学の初源性は『虞美人草』なら『虞美人草』に固有のものであり、おそらく彼の愛読した『浅見光彦シリーズ』に固有のそれがあるという感じになるではないだろうか。固有でしかありえないのは作者に資質によるところがおおきいためだろう。

 

 で、『安達としまむら』に文学の初源性についてはもう少しちゃんと書いておこう。まず、島村が安達の瞳に魅入る場面にそれがあるということは以前にも書いた通りで、そのときの独白がやはり変なのだ。というか、この作品の安達と島村のふたりの独白はどれも奇妙。きっと、その場面の独白もそのすべてではなくとも、安達の母を見つめる安達の瞳は「綺麗」ということばだけでも伝えてあげたら、安達は喜ぶはずなのにそれはしない。しかし、伝えないからこそよいのであり、その美しさに気づいているのが島村だけというところにぼくのこころが動かされたのだろう。細かいことは繰り返しになるので避ける。(彼女たちの独白にはもっと変なところがあるのだが、今日はその話はしない。)

 

 薄々気づいていたこと

 作品を倫理的に読まない、社会批評性については捨てるといっておきながら、吉本隆明の作品については倫理的に読んでいた。例外ということで見逃そう。というか、他にも数名のひとのものは本に限らないが、倫理的に読んでいるかもだ。

 

 憲法について

 権力を縛るものという認識に変わりはない。ただ、憲法は国民の理想を体現したもの?という認識であっているのかは分からないが、そういうものだという話を目にした。ピルグリム・ファーザーズみたいな話?

 日本国憲法制定時の理想ってなんだったのだろう?

 それとも今の国民の理想?

 ぼくには理想ってあるのだろうか?うーん。今は結構理想に近いといえば近いのかもしれない。

 今の憲法ができたとき、なぜ皇室制度を残すことにこだわったのか?そこはよくわからない。ただ、戦中を生きた祖父母は皇室が好きだった。ぼくにはちょっと理解できない感覚だ。

 まあ、でも、現行憲法の平和主義を嘘くさいと思うひともいるのだとおもうし、鶴見俊輔がのぞんだ「嘘からでたまこと」にはならなかったのか。

 個人的には9条は変えたほうがいいと思うし、緊急事態条項もいれたほうがいいとは思うが…

 

 全然関係ない話。明治、大正、昭和の前期までの天皇の在り方が例外的で、戦後にまたそれら以前の天皇の在り方に戻ったという見方は一般的なの?というか、それが通説なの?もし、そうならばりばりに違和感がある。むしろ、戦後の天皇制、より正確に言えば、平成期からはその進化版に見える。統帥権がなくなったなど機能面に着目すればぼくの見方がおかしいのだろうけれど、国民に愛される皇室みたいな側面はある意味、進化に見える。というか、皮肉にも愛されすぎて、国民が皇室に過剰な期待をよせることにより、かえって、最近の結婚話が難航しているのでは?と。結婚を機に皇室に対する見方が変わればいいのに。ぼくは共和制のほうがいいとは思うが、そういう憲法改正はきっと9条改正よりも見込みがないだろう。

 

 脱線している間に書くことを忘れた。

 思い出した。オリンピックにあまり関心がないと書いたし、各種条件を満たせないのであれば、中止でいいのではとは思うけれど、政治の仕草でオリンピックにヘイトが集まっているのはちと傍から見てても、気持ちの良いものではない。元から政治に依存していたので、そういうものかとも思うが…どうすりゃいいのだろう?ってぼくにできることはなにもないので、ぼんやりとそんな世相をながめるとか余裕を見せたいものだが、実際には日常に追われ、開催しようが、中止しようが、なんでもいいやとなっているであろう。

 

 もうひとつあった。『Vivy-Flourite Eye's Songs-』について書く予定だった。ってか、これが本題だった。これは明日にしよう。

 話が動いた。でも何の話であるのかはいまだに分かっていないみたいなことを書こうと思っていた。

 『スーパーカブ』は今期で一番気に入っているのだけれど、あまりにストーリーらしいストーリーもないので特に書くことはない。「礼子」と「孔子」を見間違て、とんでもないひとと友達になる話なんだなと勘違いしたひとはいるのだろうか?

 

 

 

 

昨日の続きとか 

 なんだかんだでだらだらと過ごしてしまった。いつも通りといえば、いつも通り。予定の半分も読書は進まなかった。

 

 吉本のいう「文学の初源性」について

 恋の真っただ中にあるひとに、あるいは、今日死ぬか、明日死ぬかと悩んでいるひとに文学作品を目の前に持ってきても、多くの作品にはそれに向かわせるだけの力がない、つまり文学にはそんな力はないぜ、と吉本は言い切ってしまう。

 ただ、そこで彼のことばは終わらない。続きがあるのだ。一級の作品にはそれでも日常のひとびとの生活の中で感じる切実さに向き合えるだけの、匹敵するだけの力があるという。しかも、文学の初源性について「それ自体が高級なわけではなくて、いくらでも低級になりえます。低級というか通俗的な読み物にある倫理観、善悪観にもなってしまいますから、必ずしもそれが高度だということではありません。しかしそれを高度にもっていったものがあるかないかは大変重要な区別であり、それを感じるか感じないかも重要な問題だとおもいます」(『夏目漱石を読む』p.123)と述べている。文学がある種の救いになるみたいな言い方にならない。そこは大事なことのように思われる。

 それと、この文学の初源性というのはいわゆる「文学の普遍性」みたいなものとは違うように思う。国境を、時代を超えてなんとなく読めてしまうみたいなものも大事だとは思うが、きっとそいうものとはあまり関係はない。

 まあ、かれのいいたいことはなんとなく、わかるような、わからないような。ともかく、あれはそうか?これはそうか?とたまにぼくはこのことを妄想しながら、小説だけなでなく、あらゆる文章を楽しんでいる。いや、文章だけでなく映像とか絵も。

 

 大事なことを書き忘れた。漱石の作品の中では『虞美人草』だけが文学の初源性をもっている、と吉本はいう。

 『安達としまむら』にもやっぱ、これはあると思う。まあ、ぼくの好きな場面にこじつけるわけだが、島村を見ていない時に見せる安達の美しい瞳に島村がきづく場面だ。9巻までに2か所ある。この場面がいいのはだれも気づいていない安達のよさに島村だけが気づいている感じ。安達には島村しかいないし、島村には安達にしかいない、そう感じさせてくれる。

 

 言い切ってしまう吉本

 『夏目漱石を読む』の中でもあまり詳しいことは書けないだけれど(ぼくにはちょっと書くのがはばかれるため)、頭がいいのは病気みたいなことを言いきってしまう。これが吉本なのだなと思う。病的とはならない。

 このかれの視線は確かなものというか、かれの物事の認識の仕方に関係があると思う。『反核異論』でもそうだった。その他に印象的だったのは、新興宗教に家族の誰かが入ったとして、そのときに家族なんて役に立たない、すくなくとも吉本がその立場におかれたら何もできないみたいな話、あとは晩年の原発に関する発言も。

 こうした発言に対してぼくは間違っているか、どうかを判断することはできないが、とくに違和感をおぼえるみたいなことはなかった。違和感がないというのはかれらしい発言だと思ったのだ。

 なので、ぼくよりもだいぶ年上で失礼な物言いになることは承知だが、団塊の世代でかれの発言を無視したり、ボケたみたいなことをいうひとに対してむしろ違和感がある。

 

 当時をぼくは知らないので

 漱石論として吉本は江藤淳のものをほめている。このふたりが漱石をテーマに対談とかしているのだろうか?

 あとは芥川龍之介の「後進国における開化」の問題としての漱石みたいな見方を吉本は支持している。このへんがぼくにはぴんと来ない。いや、書かれていることはぼんやりとは分かるのだが、こういう見方こそ時代が経つにつれ、薄れてしまうような気がするので、だれかが節目節目に言及していくのか?節目っていつだよって思うが。

 

 昨日「作為」と書いて気になったこと

 丸山眞男荻生徂徠論ってどんな内容なのだろう。

 芥川の話にもつながるのかもしれないが、明治とか大正とかが歴史の話ではなく自分たちの生きた時代、あるいは、その時代を感じることができた世代ってのはせいぜい1960年代生まれくらいまでかしら?ぼくなんかにはその感覚がないわけで。ぼくはツイッターをやらないが、のぞかせてもらっているとやっぱり感覚の違いみたいなものを感じる。この感覚の有無みたいなものは面白い。

 ぼくの母方のじーさまは『樅ノ木は残った』を勧めてくれたのだけれど、もしかして、母方は賊軍だったから、西郷の話をする幼少のぼくに辟易としてたのだろうか。そんな様子はこれっぽちもなかった気がする。うーん、昔のこと過ぎて記憶にないだけかもだ。

 

 漱石の理想の女性像

 均質な性の認識の世界に漱石は生きていて、そこに女性性なり男性性が入り込んでくると吉本は解釈している。そして、その女性性が入り込んだとき、理想の女性像を読み取ることができる。

 理想の女性像については不明だが、ぼくには吉本もその世界の住人に見えた。もしかしたら、フランシス子が理想の女性像なのかもしれないとは思った。

探しているうちに

 漱石の『虞美人草』が気になっていて、読もうと探したら、見つからず、こまったものだなとぐずぐずしているのもなんなので、すぐに見つかったというか、いつのころからか、机の隅に置かれている『夏目漱石を読む』(吉本隆明)をまた手に取ってみた。何度目なのかは覚えていない。彼の著作の中でもだいぶ好きな部類に入る。ぼくは彼の声を生で聞いた経験がない。最近になって聞いたといっても、YOUTUBEでわずかに聞いたことがある程度の話だ。そんな自分にとってはこういう講演に手を加えた形式の本は読んでいて楽しい感じがする。同様に最近、買った小林秀雄の『学生との対話』も気に入っている。かれらの対談集とかもけっこう好きかもしれない。

 いきなり脱線から始まってしまったようだ。ついでなのでもうすこしどうでもいい話をしよう。漱石の読み方については柄谷行人の影響を受けている自覚があったがそれは間違いで、ここ数日、『夏目漱石を読む』を読み返していて、むしろ吉本に影響されているところのほうが大きかったと気づく。漱石の読み方というよりも文学の読み方というほうがより正確かもしれない。

 まず、かなり雑にいってしまうと吉本の読み方は作者還元主義の読み方で、漱石的主題を吉本は漱石の生い立ちに由来する資質に求めていく。

 次に、かなり大胆に文学ってのはもともとはこういうもんだみたいなことを言いきってしまう。正直、吉本の感じ方についてはよくわからん部分もあるのだけれど、ぼくもその姿勢だけはまねて、文学ってのはこういうもんだみたいな妄想を巡らせることがよくある。彼のいう「文学の初源性」みたいな発想は楽しい。

 大雑把にいうと、このふたつのことは吉本から影響をうけた。ぼくが小説を読むときの態度みたいなもの。

 

 漱石的主題について

 宿命/反宿命の物語。

 「宿命の物語」とは成り行きに自然に任せる物語。

 「反宿命の物語」とは自然な成り行きに背く物語。漱石の小説はどんどんこちらに傾斜していったというのが吉本の読み方。もうちょい詳しく書くと、同じように宿命に逆らうにせよ、『三四郎』は野放図な青春物語であり、青春の持つ酸いも甘いもあるが、『それから』以降は破滅的になっていき、『明暗』は未完に終わる。

 その物語はいずれも女性ひとり、男性ふたりの三角関係という形で描かれる。

 こうした読み、読解も面白いけれど、吉本の読みが面白さはこのような主題に執着した淵源を漱石の生い立ちに見ているところで、まあ、あまり詳しく書くのもあれなので、ひとつだけ記しておくと、漱石に同性愛的指向があったと見ている。その根拠はわりかし明瞭で漱石の小説の中の女性ひとり、男性ふたりの三角関係において、その男性ふたりは親しい関係にあるため、西洋の不倫小説、姦通小説と異なり、恋の駆け引き、勝ち負けが主題にはならず、例えば、『こころ』の先生のように三角関係から罪の意識が生まれ、やがては自死に至る、破滅的結末を迎える。漱石の小説に出てくる登場人物のおおくは自らの意志で自然な成り行きに背き、言うなれば自ら不幸になりに行く物語なのだ。

 こう解説されるとたしかにそう思える。漱石を好きな人が世の中にどれくらいいるかは知らないが、おおくはその暗いところも含めて、好きなのだろう。

 ぼくが『俺ガイル』に悲劇的結末を予想したのはこのためだったかもしれない。この場合に悲劇的というのは自死のようなものを指すわけではなく、主要な登場人物、特に奉仕部の3人がそれぞれの自然な成り行きに身を任せるのを止めるといような意味合いである。

 

 吉本隆明の面白さ

 詳しい内容は省くが、吉本が夏目漱石に同性愛的傾向を見るという場合、漱石がそもそも性を均質的にとらえているから、と吉本はいうのだが、これは漱石もそうではありそうだが、吉本もそうなのでは?とぼくに思わせる。『フランシス子へ』(吉本隆明)で武田泰淳に言及している。その記述なんかを読むとますますそう思わせる。さらに言えば、フランシス子について語る吉本の文章をみると人間と動物の境目も彼の中では曖昧になっていたのではないか?と。吉本の場合は生い立ちによるところとも見えないので(彼の生い立ちをぼくは知らないので)、年齢によるものか?このへんのことを考えるとより面白い。

 また、性を均質にとらえているがゆえか、例えば、均質な性の世界とは別のところからそこに女性性が入り込むとある種の類型が生まれる見ている点。別のところからっていうのはどこよ?どこというか、吉本のいう「作為的」ということか?吉本による『明暗』の吉川夫人の解釈は面白い。

 

 それにしても当初予定していたものとは全然関係ないものを読んでしまった。明日はなに読むべ?

 

 

 

久々に異性愛ものを見て感じたこと

 といっても『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』はもう続きは見ていないのだけれど…吉田さんはモテる。『イエスタデイをうたって』の魚住陸男もモテる。『俺ガイル』の葉山隼人も。

 このモテるってのはなんなのだろう?彼らはまず女性にモテる以前に男性からモテる。ちょっというのをためらうけれど、女性はその男性からモテる事実にのっかっているように見える。まあ、ぼくが傍から見てきた環境において経験的にそんなことを思った。彼女たちにとって「彼でなければならない」という限定性はなく、彼のほうがいくら愚鈍でもそのことくらいには気づく。なので、モテる男性が文字通りモテるわけではない変な現象になる。手あたり次第とはならない。世の中、上手くできているのか、いないのか?

 『俺ガイル』が面白いのは葉山隼人にこのようなキャラ設定を背負わせながら、彼の本質をそこからズラしたところにあったのだろうな。「君は酔えない」ということばがふさわしいのは比企谷八幡ではなく、葉山隼人のほうだっただろう。作中でも葉山隼人雪ノ下陽乃のふたりをぼくはとくに気に入ってしまった。あとは折本さんも好き。

いちアマチュア市民による時代の記録

 時間があると普段あまり見ることのないテレビに触れるなどして、いろいろといらんことを思い出したり、考えたりする。「市民」ということばも手垢のついているものらしいので、プロのひとと区別するため、アマチュア市民のメモとして残しておこうかと思う。アマチュアだから社会に対する責任は負わないみたいな意図はない。それはプロのひとと同等にぼくにもある。

 

 何の話をするのかというと、オリンピック。あまり関心がないとは以前に書いたが、今日たまたまテレビでその開催の是非について議論がされているのを見て疑問に思った。

 その本題に入る前にオリンピックの思い出についてすこしふれておこう。どの程度の関心のなさなのかの確認を込めて。オリンピックを見ていたのは大体深夜だったと思う。時差があったからなのだろうけれど、もしそれがなかったらオリンピックを見ることはなかった。高校生くらいになると家にいる時間が減る。それに合わせてテレビの視聴時間もへる。今のように深夜アニメをみる習慣がなかったときは夜更けに暇を持て余したとき、テレビをつけてオリンピックがやっていたら見る程度の関心だった。(深夜アニメも実際には録画で見ることの多い今は時差で深夜にオリンピックがやっていてもおそらく見ない。)そのとき、どんな種目であっても見たのか?ぼくはうまい、へた関係なく、どんなスポーツでも見るよりはやるほうが楽しいという思い込みがあるので、自分もやれそうなスポーツなら見ない。なので、ハンマー投げとか、棒高跳びとかだと見た。水泳、テニスだとまず見ない。サッカーは見た記憶なし。

 まあ、自分で書いていてもどの程度の関心のなさなのか、よくわからない。

 

 それでは本題。オリンピックの開催/中止の判断は首相がするべきものなのか?

 ぼくは首相が決めるべきものではないと思う。以下に理由。

 民間の興行の開催する/しないの判断は民間に任せればいい、これが前提のように思われる。なので、政治家にご聖断を仰ぐのはおかしいのでは?民間のほうで開催の条件を設定して、国の協力が必要なら、それを要請し、できる範囲で政治が協力すればいいだけの話で、その協力ができないならできないでそう伝えれば終わりの話に思う。

 なので国が全力を挙げて民間の興行に協力するのには違和感がある。たとえば、オリンピック開催のために緊急事態宣言の延長は止めてほしい。医療体制のひっ迫を考慮しての延長なら、その限りではない。また、医療関係者の協力要請も政治はできる範囲でやって、集めることができないのなら、それを伝えればいいのではないか?ぼくには菅さんというひとがよくわからないのはこの点で、なぜそれを自分がやるみたいな話を彼はするのだろう?政治力の誇示?ぼくは本当に政治に疎いのでこのへんのことがわからない。

 まあ、ぼくの認識がそもそもおかしいのだろう。オリンピックは招致の段階から政治が大きく関わってきた。だからこそ、東京開催にこぎつけたのだろうし、組織委員会を見ても、政治家なしには動かないことがおおいようにみえる。

 ぼくは間違った認識をもっていることは認める。 それでも、やはり腑に落ちない。民間の興行がここまで政治に依存していることに対する違和感だろう。この点に関して言えば、コロナ禍は関係ない。

 余計な話をもうひとつ。民間の興行の成功は政府の業績ではないし、その失敗は同様の理屈で政府の責任ではない、そういう形にならないものだろうか?

 

 

ちょっとわからんな

 シンギュラリティ問題について

 人間以上の知性という場合、その知性は倫理的な価値判断とかも含むの?

 まあ、それはよくわからないので放っておくとして、

 AIが人間よりも倫理的に人間らしく、あるいは人間を超える存在だと見えるように作られた作品があるとして、それをなぜAIでやるのか?まあ、こういうのも野暮だけれど、AIではなく魅力的な人間を描くのじゃだめなのか?という疑問。

 AIに人間を超える存在になってほしいという人間の願望の投影?

 それとも、AIであることが作品上、重要な意味をもつ?

 そのへんは作品ごとに見ないとわからんのだろうけれど。後者の場合なら、関心がある。

 

 まあ、全然、関係ない話だが百合作品も異性愛の作品にはない味わいがあるから、楽しいのだろうと今のところは思っているので。で、おかしな文章になるが、百合作品を楽しんでいるとき、実際には百合要素を特に意識しているわけではない。

『BEATLESS』という作品があることを知った

 『Vivy-Flourite Eye's Songs-』にAIのもつ特徴のひとつに「利他性」ということばをあてはめるのには違和感がある、と今朝、書いた。

 『BEATLESS』を知らなかったが、そこはうまくクリアーされてそう。まあ、あらすじを見ただけなのだが…契約という仕掛けがあれば、「利他」の「他」が具体性を帯びる。「誰かのために」の「誰か」がはっきりと限定されることで「利他」ということばにつきまとう嫌な感じがなくなる。

 GWはなに読むべ?と思っていたが、『BEATLESS』もいいかも。