忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

楽しみにしていたので

 『転天』と『おにまい!』の最終回を見た。早起きした甲斐があった。

 

 『転天』は、しかし、最終回はきりがいいところで終わった、というとそうなるものの、たぶん、物語が転調していくのはこの後なのだよね?と原作未読ながら感じている。予感というほど、これといった確信もないわけだが。精霊との契約の暗部は作中で明確に示されていたのだし、階級社会の暗部も同様かと思う。

 お世継ぎ問題なんかは現代日本を彷彿させる。

 空を飛んでいるところを見ると、ぼくが思っていたよりも暗い作品ではなかったのかもだな。

 しかしなあ。こういう終わり方をすると、というのはなんか一応の結末をきっちりとやると意外と2期はないのか…けっこう、2期が見たいのに続編の報せを耳にすることがない作品がある。

 

 『おにまい!』はおもしろかった。みはりのいうとおりだよ。まひろが見た目が変わって、違う生活があることを知って、具体的には妹であるみはり以外におしゃべりする相手ができて、楽しいのだと思う。大前提として、まひろがぼっちな人間の生活をよくしった人間であるから、今のまひろの生活が際立つ。ただ、まひろにお友達ができてしまったことで、今度はみはりが寂しさを感じる番になるのか?と思いきや、みはりにはもともと友達がいたので、そうでもないようだ。が、みはりはやっぱ少し寂しいのではないか。最後のシーン、いわゆる「恋人つなぎ」とよばれるものであろうか、あの手のつなぎ方をクライマックスに持ってきたのには若干、あざとさを感じるけど、まあ、いい描写というか、すこし感動した。みはりがガチでお兄ちゃんというか?妹というか?はっきりいってしまうと、肉親であるとか関係なく、まひろという人のことが好きなのだろう。みたいなことを考えると、「日常系」とはやっぱすげーな、と思う。そのかもす雰囲気と内在する主題の隔絶に違和感が生じない。アニメというものがそうなのか。ディズニーなんかも、けっこう、とんでもないテーマを仕込んでいるような気がしなくもない。ジブリも。

 ということで、すこししつこいけど、この作品は性別転換あるある系のお話ではないでしょう。いや、そのようにも見えるので、話題になったとはいえるかもしれない。どっちでも、いいか。おもしろかった。

 

 ※『おにまい!』の制作は『無職転生』のところ。

 

 自分で書いていて、

 いわゆる「~~」

 どなたが言っていたが、ニュース原稿でこれはおかしいと思う。ぼくもそれをニュースで聞いてアレ?となった。日テレの23時のニュースだったか。何年ぶりかに、民放のニュースを見た、というのは嘘だけど、たまたま、目にすることはけっこうあるから。

 本当は書きことばで、自分もやっているが、

 いわゆる「~~」

 も変だとは思うけど、なぜなら重なっているから。「頭痛が痛い」みたいな。「」付ということ自体に、「世間一般でいわれる」が含意されるので、でも、この書き方をぼくもする。くどい感じがわざとらしくてすきなので。用例としては、

 いわゆる「恋人つなぎ」

 いわゆる「中二病」など

 ちょっとくどくどしくて仰々しい感じが出て、ひとりで楽しくなってくる。

 あ、脱線した。

 ニュース原稿ではそもそも、「いわゆる」は不要と思うけどな。逆につけられるとそこにはどういう意図があるのか?気になってしまう。接頭語的なつかわれ方とでも言えば、いいのか、そんな傾向でもあるのだろうか。

 

 いわゆる「文学を読む」について

 まあ、ぜんっぜん、「いわゆる」ではないわけだが。

 じかに頭をぶん殴られるごとき衝撃というのは感じます。これも身体性ということでしょうか。

 例は何でもいいのだけど

 「ああ、おまへはなにをして来たのだと……吹き来る風が私に云う」

 これなんか、ぼくがそれこそ、14、5のころに読んだけど、その時、今以上にものを知らないただのクソガキ、いわゆる、「真性中二病」だったのに、なんかすごいものにぶつかってしまったという感覚があったはずだ。「文学を読む」ことの始まりにはこのような契機が必ずあると思う。なんか、根本からぼくは時代に取り残されている気がしてきた。知識としての文学みたいなものは大事には違いにないけど、「文学を読む」はそれよりも、知識化よりも、少し前の段階から始まっていたような気がする。

 しかも、当時のぼくには故郷なんてないのだしな。なににぼくはぶちあたっていたのか。

 これは当時の先生の影響もあるかもだ。なんか、一文でも気になる箇所が出てきたら、その読書はいいものなんだ、と教わったと思う。しかし、その種の助言を素直に聞くような人間ではなっかたけど…

 というか、気に入った一文に出会うのには全部、読まないとダメか。まあ、いいや。

 

 あと、結局は全体を読まないと始まらないこともある。何の作品であるのかがわからない。こればかりは読み切ることからしか始まらない。もちろん、読んでいる過程でも、何の作品であるかは考えるわけだし、読み終えてもわからんことも、たくさん、あるけど。

 けっこう読みかけの小説があるな…そのうち読むだろと思いながら、結局、読んでない。

 

 ちなみに、『お兄ちゃんはおしまい!』で一番、好きなセリフはまひろがもみじにはなった「早く治るといいね、ちゅーに病」だった。9話「まひろと年末年始」だった、と思う。治らないんだよなーと聞きながら、思った。

 というのは嘘で、みはりの「おにーちゃん」が好きかも。「お」を聞いた瞬間に、その「おにーちゃん」にどんな思いを込めているのかを聞き分けられます。怒り、喜び、愛情、憎悪はないか…というのも、嘘です。聞き分けられるというのが嘘です。顔の表情など、情景描写も参考にしています。

 細かいお話になるものの、妹として兄のことが好きというよりも、みはり視点から、いつのまにか「おにーちゃん」と自分が呼ぶようになっていた生き物のことが好きという感じが好きなのかも。この好きにおいては血縁要素は捨象されているような気がする。