忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

気づかなそうなので

 気にしても仕方ない気がする。

 人間が書いた文章なのか?AIが作成した文章なのか?もう、見分けがつかないなら、というのは、ぼく視点から、気がつかないのなら、気にしても仕方ない、と思える。で、その気づかないことで露呈するのは、人間の能力ではなく、ぼくの能力のほうであろう。

 しかし、チャットAIとお話してみるとけっこう楽しかったのだ。新しくなってからは試していないけど、以前のバージョン?では人間によって答えが誘導できそうに思えたけど、これもまた、人間とAIの間だけではなく、人間と人間の間でも行われていることだ。なお、この種の誘導的会話はぼくはあまり得意でもないし、好きでもない。嫌いとさえいえる。あれは会話ではないが、予算委員会とか、見ていると飽きてくる。ガチの議論であれば、そのほうが見ていて楽しい。

 

 シンギュラリティというのはよくわからないけど、これも、AIの知性が人間の知性の観測外までいったら、人間には気づけないのだから、いくら気にしても、実際には、ただ、その不安だけが残るだけ、というお話にはならぬのだろうか?まあ、人間はよくわからないものを自らつくりだして、それにおわれるのがつくづく好きな生き物なのだろうか?疎外論というのは人間の志向の問題なのか?思考の問題なのか?おやじぎゃぐ

 まあ、与太話はこのへんでおしまいにして、ともかく、その臨界点は観測できるものであるのか?も素人のぼくからすると無理なのでは?と気がする。繰り返しになってしまうが、人間に気づかれるようでは、AIもまだまだ(成長の余地があるよう)だな、という感じ。

 

 永井均さんのお話をちゃんと理解できていない気がするけど、というのは、『独矛超盾』の最終章のひとり二役をこなせていないので…ひとつ思ったのは、この問題は文章化、言語化するのが非常に難しいのだとわかった。

 ぼくがためしにパラフレーズしてみようとするとことばの選定が甘くなり、うまくいかない。

 でも、言い換えてみたくなる衝動はおさえきれない、というほどでもないけど、この問題への愛着のようなものはどこからくるのか?その淵源は?世界を穿つみたいな感覚か。世界を穿つことばということなのかも。しかし、これも、文学青年風な読み?中二病的な読み?

 

 「私」、「ぼく」ということばを発したということ自体が自他の区別がついている、というのは自分以外に他者がいるという世界観の中にいるということか。言語のつくりだした世界?ところで、この「言語」という表記をぼくは「ことば」に置き換えたくなる。まあ、それはいいや。

 その「ぼく」という存在だけ、なぜか、ひとりだけ異様なあり方をしているという事実?で、ここで、「異様」ということばをつかうとうまくこの事実を記述できなくなるのか?どうか?「異様」ということばをあてると、雑味が生じる。ぼくが勝手に「私秘性」を紛れ込ませているだけと言えるのかもだけど。ともかく、事実の記述をそのままに受け取ることができなくなる。

 これはどうしてそうなのるのか?というと読者が自分の生きた得た感覚を文章に持ち込んで、読んでしまうからか。「読む」という行為が非常に高度な作業に思えるのは、実感?をそこに持ち込んでしまうからか。まあ、「書く」にも同じことが言えるか。しかし、そういった実感を取り除いて、文章を読んだり、書いたりできるのだろうか。できたとして、それはなにをしていることになるのか?というのがAI問題なのか。

 あれ?何の話をしていたのか。

 

 「私小説」好きのぼくからすると、この「私小説」とことばが変な感じに響くようになったのはとても楽しかった。「私」ということばに二重性を見るようになったから、と思う。

 

 まあ、このお勉強はまたしてみよう。カントはまだ読んでいない。大江健三郎もまだ読んでいない。どういうわけか、『おにまい!』を見続けている。おもしろいからか。おもしろいことがたくさんありすぎて、時間と頭が足りない。

 

 ああ、AIの「シンギュラリティ」問題、これは言語によって構成された世界の破壊を志向すると起きるのか!しかし、その世界はもはや人間には理解不能なものになるか?というと、意外と人間の頭はやわにできているので、存外、その世界をも悠々と楽しんで生きるような気もする。

 

 関係ないことを思い出した。

 人間は太古の記憶を呼び覚ますといい気がする。

 自分たちが捕って食われていたころの記憶を。あのころは人間が喰われる側だったのです。

 まあ、ぼくにはその呼び覚ますこと自体ができない気がしますけども。

 では、なぜ『エイリアン』、『マブラヴ』シリーズ、『進撃の巨人』のような作品が生まれるのか?というとたぶん、その記憶がどこかに残っているから?

 よくわからない。

 

 『バートルビー』は難しい作品だ。

 「前提の士」と「好みの士」というのはやっぱよくわからん。p.31とにらめっこして、根負けした。

 ある前提を選ぶのが好みの問題ということ?

 しかし、ぼくも言ってみたいとは思う。

 あなたがそう望むなら、ぼくはあなたが望むようなことはしくない、と。そうしない方が好ましい、と。

 頓智というよりも、深い拒絶がそのまま深い受容へというような倒錯感があるのかもだな。

 

 アニメ『一休さん』をあまり見たことがないけど、ひろゆきさんは一休さんなのかも。