忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ふむふむ

 メモ

 日本におけるフーコーの受容のされ方についてツイッターで示唆を受けた。忘れないうちにメモメモ。

 死の陰影か…ドゥルーズアルチュセール、バルトなんかもそうだったらしい。ドゥルーズについては多少のことはしっていたが、バルトなんか調べてみて、驚いた。

 たまに世代論に意味はないみたいな話を見かけるけど、ぼくはそうは思わない。ある種の感性は時代とともに消えてしまう。だから、ぼくには当時、どう読まれたのか?みたいな話はとても面白い。

 三島由紀夫を連想してしまった。この間、NHKで特集していた気がするが、死の陰影といっていいのか、少々戸惑うが、でも今でも読まれるゆえんとそれとは切り離せないのだろう。ちなみにぼくは三島の文章をその死を踏まえて読むということは意識的に避けてきた。その結果かは知らないが、彼の文章を美しいと思ったことはない。美しい文章とうものがそもそもわからない。よく話題にあがる『文化防衛論』については読んだことがないので、それを読めば見方はかわるのだろうか?ところで、村上一郎とか、どうなのだろう。全然関係ない話だが、NHKはなぜ村上一郎の特集はやらないんだ?

 

 『言葉と物』について

 目下、悪戦苦闘中。

 まず、もっとわかりやすく書いてくれと思う。ぼくには難しい。読むのにひと苦労だ。加藤さんはあれでも解説をわかりやすく書いてくれていたのだなと馬鹿なぼくは感謝した。

 ちんたらやっているので、序盤だが、フーコーの文学観は特異なのだろうか?何回か読み直さないとわからん。

 ドン・キホーテの読解は面白い。この部分を読んだだけでも、たのしーってなってしまった。もっとも、現時点で一番理解できたのがそこという情けない話ではある。

 とまあ、当初気なっていたところとは関係ない部分に興味がいってしまっているが、その部分は忘れずにちゃんと読みたい。

 それにしても、たしかに思想家の死(死に方)が読者に落とす影というのはある気がする。話は飛ぶ。前々からぼくは死んだひとの文章はわりかし素直に読めた。生きているひとの文章では吉本隆明と愛読しているブロガーさんくらい。いや、もう少しいるか。いくらなんでもそこまで偏屈ではない。本を読む場合、生きているひとよりも死んだひとの文章のほうが素直に受け取れる程度の話かも。(受け取るというのは理解とか、共感を意味するわけではない。読んでいてあんましよくわからないけれどおもしろいってのがそれかも。)

 

 そういえば、『安達としまむら』の異世界感は吉本の言っていた「25時間目」みたいに見てもいいかも、と考えた。「25時間目」に異世界の門が開くのだ。