忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 フーコーに限った話ではないかもしれないけれど

 ネットでフーコーについて検索してみたら、やっぱり歴史的にデタラメみたいな指摘があった。フーコーについては実のところどうであるのかは分からないが、そのような指摘が大事とは思うものの、本を読む面白さってそれだけじゃないよねと感じる。デタラメを書き散らしたような文章であっても、まことしやかに語られているように見える、これは詐欺的というようなことではなく、昨今話題の陰謀論的な面白さとも全く別種の、なんだろう、著者にそう書かせるだけの切実ななにかが垣間見えたとき、まことしやかとなるのだろうか?

 別の言い方をすれば、後の時代から見れば、インチキくさいことしか書かれていないのにある時代の人たちんはそれを熱心に読んだ、その理由を考えてみることはぼくには楽しい。もっとも、フーコーをインチキ呼ばわりするつもりなど全くない。むしろ、彼の権力論はかなり正鵠を射ていると感じるので。

 まあ、フーコーは相変わらずちんたら読んでる。いつものくせで寝る前に適当なページを開いて読むみたいな読み方。なんとそれで同じページを何度も読むことになる。でも、通読の目印にしおりをはさんでいるので問題なし。

 

『リゼロ』は面白い

 2期ももう終わりが近いのか、少し前まで退屈だったのが噓のよう。

 エルザさんをいいなと思って見ていたが、2期はエキドナとロズワールのお話だったということか。ロズワールくんは彼の現実にどう向き合っていくのだろう?まあ、当初のぶっ飛んだキワモノみたいなノリが消えて、よかった。ああいうキワモノ感はひどく退屈に感じる。というよりも、そう見るぼくが退屈な人間ということかもだ…

 

 「異世界もの」に関するメモ

 「異世界もの」の個人的な定義 現世にも軸足が置かれている、もしくは現世の生き方を異世界でも参照している。こんな感じにしておこう。

 まあ、そこが面白い。『無職転生』なんかはもうすこしちゃんと見ておけばよかった。とびとびで見てしまったのを少し後悔。作品ごとに見る必要があるとは思うが、まず現実の世界が主人公にとってなにであるのか?で、次に現実の世界と異世界の関係が改めて問われるのか?まあ、気が向いたら、また考えてみよう。あとは、まさにそれを見ている視聴者にとっての現実とはなにか、そのことを暗黙裡に問われているのから面白いだろうけれど、それこそ回顧形式の物語に触れても、同じような問いに立たされるし?(なぜ自分の目の前に広がる現実は、自分の存在を含め、そうでしかありえないのか?みたいな。)まあ、ちょっと整理してみないとわからんな。

 その定義らしきものが頭をよぎった結果、『fate』とか個人的には異世界ものではないと勝手に思っている。その点では『禁書』シリーズも同様。(その定義に当てはまることと面白さに関係はない。ただ、面白さの質は変わってくると今のところ思っている。)で、微妙なラインが『SAO』。キリトはゲーム内のほうが本物っぽい。現実世界の彼は世を忍ぶ仮の姿的な。

 で、意外?なことに『安達としまむら』の7巻が「異世界もの」だった。ふたりが体育館で出会ういきさつを見れば、それほど違和感もないと今になって考えている。

 ところで、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』とか『崖の上のポニョ』はどうなのだろう?まあ、これらは上記の定義からは逸れるか。あんまし記憶にないが『紅の豚』とか『ハウルの動く城』のほうがそれに近いかも?近いと言っても近いだけで全然違うものかも。

 メモ書きしてみたけれど、びっくりするくらい何も明確にならなかった。まあ、いいか。