忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

どうやら見逃したみたいだ

 机の上の配置を変えたら、どうにも落ち着きが悪く日記を書くのをサボってしまった。言い訳だ。

 

 以下メモ兼日記

 

 『プロフェッショナル  仕事の流儀』を見逃した。日常的に見る番組でもないのでぼくの勘違いかもしれないが、曜日も時間帯もいつもとちがった?少し残念。新作映画は見ていないぼくが残念がるのも少し変かも。

 でも、まあぼくはエヴァのいい視聴者ではない。

 テレビ版についてはリアルタイムで見ていない。もし見ていたら、同世代のシンジ君に共感しただろうか?ちょっと想像はできないな。

 初見時の感想とかは面白かった以外のことはよく覚えていない。ただ、父に認められたいシンジ君。シンジ君を産み、愛したユイ。息子に嫉妬するゲンドウ。この家族の物語。こういう理解をしていた。そして、その部分に関してはあまり関心を持てなかった。

 その理由は恥ずかしながらちゃんと覚えている。当時のぼくの眼前の問題は柄谷行人のことばだった。正確な引用は手元に本がないためできないが、学生時代の友情は親を手段として使っているため成立しているというようなことばだったと思う。なんて嫌なことを書くやつなんだ、と当時は悲しかった。が、ともかく、ぼくにとっての親子の問題はこの形をとっていたのである。また、ぼくにとっての母や父はシンジ君にとってのそれらとは明らかに性質の異なるものでもあった。

 もうすこしエヴァの別の側面についても考えてみよう。14歳問題としてのエヴァ。別名、大人になれないこども問題。これは以前にも日記に書いたが、14歳の描き方としては『魔女の宅急便』のほうが好き。ただし、キキが大人になっているのかは判然としないし、ぼくはそもそも成長物語の成長というものに懐疑的である。通過儀礼によって大人になるみたいなものの見方には違和感がある。

 ただ、両作品に共感する部分として正体の分からない何かに対する不安の描かれ方がある。シンジ君は使徒とかいう訳のわからないものと戦っていたし、キキは魔法が使えなくなったことと向き合っていた。不安を自力、他力問わず解消するのが一人前の大人ということなら、まったく実感は湧かないが、そうなのかもしれない?

 ちなみに、こういう不安みたいなものはぼくが半人前だからかもしれないけれどいまだにある。でも、ぼくはやっぱり自分が大人であるか、否かには関心はない。

 また別の側面、使徒など宗教的意匠を凝らした作風については、ぼくに理解するだけの前提の知識がないため、端的に言ってよくわからない。

 ざっーと感想を書いていて思ったが、やっぱりいい視聴者ではなさそうだ。

 

 では、なぜ『プロフェッショナル』を見ようと思ったのか?

 世間の流行に乗ってみたかったってのはある。

 

 エヴァを語ることは監督庵野秀明さんについて語ることになるのか?

 監督庵野秀明さんについて語ることはエヴァを語ることになるのか?

 エヴァを理解することは監督庵野秀明さんを知ることになるのか?

 監督庵野秀明さんを理解することはエヴァを知ることになるのか?

 

 以上の4つのことに関する疑問。

 バルト、フーコーのいう「作者の死」という問題。あるいは加藤典洋の提唱した「作者の像」が必要ということ。

 例えば、押井守作品と庵野秀明作品はどちらももぼくには面白い。でも、その面白さの質は明らかに違う。それはぼくなんかは作者の違いからくると考える。加藤さんはそこはもっと精密に考えた。夏目金之助夏目漱石。作家の違いだけではなく、作者と実人生を生きるそのひととの間にズレがあるとでもいえばいいだろうか。加藤さんの読みに倣えば、同一の作者であっても、場合によっては作品ごとに「作者の像」が異なるケースが出てくることになる。とすれば、その違いを見るのもたのしいよな、とぼくは思った。(漱石はこの例としては適当ではなかったかもしれない。)

 

 そこで『プロフェッショナル』はどういう番組の作りになっていたのかが気にかかる。監督庵野秀明を撮っていたのか。素の庵野さんに迫っていたのか?あるいは両方を?

 

 ところが、フーコーの言っていることもよくわかる気がする。

 以前、この日記で大して関心もないくせにネットニュースサイトの文章について書いたが、それらの文章の特徴は結果的にではあるが、だれが書いてもいいようなものに見えてしまう問題。ある種の党派性の表明だからだれが書いても同じようなものになるのか?(単純な「リベラル」、「保守」に分類されない「冷笑系」、「無党派」を含めて)

 別の誰かが書きそうなことをいかにもそれを書くのにふさわしい人が書いている感じ。ぼくにはとてもそれが不思議な感じがした。なんなのだろう。ぼくはツイッターを覗く場合、極力、その種の発言は避けるようになった。あ、結局、自分がツイッターを始めることはなさそう。

 まあ、この辺にしておこう。

 いや、もうちょっとだけ。たとえば、だれかの正義を代弁するにしても、そのひとしか書けないってことがあるような気がする。ぼくはその部分を読めるようになりたい。あるいは、自分もそういう文章を書きたい。しかし、ぼくはきっとなにかの正義についてはあまり書くことはないだろうな。書いていても、ぼくは楽しくならない。きっとぼくみたいな人間は正義を語るとめんどうくせーやつになると思う。偏屈だからな。