忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

いろいろとメモ

 文章を読む面白さについて

 フーコーを読んでいると感じる。散文の面白さ。翻訳を読んでいるので文体とかは感じることはできないわけだけれど、きっとフランス語で読めたらもっとたのしいのだろう。で、その文体を楽しむということはいかなることなのであろうか?

 もうちっと突き詰めてみると楽しんでいるものの正体は本当に文体なのだろうか?

 そんなことをツイッターを眺めながら思った。

 小林秀雄には詩才が無かったという話だった。中原中也が傍にいたらそう思うだろう。でも、だから彼は批評家になって、『本居宣長』を書き、ぼくがそれを読めたことにつながる。それを思うと結構なことじゃないかとか書くとちょっと失礼かもしれない?

 で、さらにツイッターで面白かったのが、本居宣長に詩才がなかったという話。これはなるほどなと思った。このことについては以前から疑問だった。なぜ小林は契沖、藤江藤樹、上田秋成ではなく本居宣長だったのだろう?という疑問。思想劇として読んでほしいと小林自身が書いていた記憶があるが、それなら本居宣長をメインにしなくても構わないのではないかと以前思っていた。でも、今日、そのツイッターを見て、小林が『本居宣長』というタイトルに仮託した思いをちょっとでけ分かったような気がする。でも、小林とは違って、宣長さんはちょっとお馬鹿さんに見えないこともない。頭が悪いという意味ではない。愛すべき馬鹿さ加減、論争相手を当惑させる生真面目さみたいなものが宣長にはある、そんなふうに小林も書いていた思うのだが…小林は宣長が好きなのだろう。ベルクソンへの関心も似たようなところからきているのだろうか。

 そんなことを思った。

 あ、フーコーにも詩才がないから、散文がめちゃくちゃ面白くなったみたいなところはあるのだろうか?とこれまた失礼な妄想をしたことを書き忘れた。

 

 エヴァについて

 エヴァは難解なのか?

 これはちょっとよくわからない。宗教を思わせる描写についてを指すのなら、ひとそれぞれだろう。前提となる知識の有無によって理解度が変わるだけの話で、一般的にそういうものを難解というのだろうか?

 で、たまたま昨日寝付けなくて宇多丸さんがエヴァについて話してるのをYouTubeで聞いていて思ったのが、エヴァ私小説的に見ることができるゆえの難解さという話?どうなのだろう。これはそうかもしれないけれど、作者と作品と視聴者の関係性の中で私小説として見ることの意味が、まずぼくには十分には了解できないところがある。先日の繰り返しになるが、結局、作品を見ているのか?作者を見ているのか?、それがひとつ。あとはめんどうなので書かない。

 庵野さんだからできる描写みたいなものがあって、それを見るぼくが楽しむ部分は確かにある。例えば、エヴァに出てくる母や父とぼくの母や父はまったく別の生き物に見えるが、庵野さんの描く親子を見るとそういうものなのかな?と気もしなくはない。しかし、それでは難解の逆じゃないか?

 この話はよく分からなくなってきたからおしまい。

 見え方の上手さはすごいなと思う。

 それと自分(視聴者、客)のことを庵野さんは分かってくれているという感じがあるのではないかと思う。実際、庵野さんはアニメファンのことを考えているのだろうし、だからこそコアなファンがいるのだと感じる。

 で、難解というのであれば、最近のアニメも難しいのが多い。『リゼロ』とかさっぱりわからないところがある。ものすごく単純な疑問として嫉妬の魔女はなぜスバルに関心があるのだろう?とか。現世のスバルに関心があったのだとしたら、どこに?と思う。まあ、他にもこれ以上は書かないが、訳がわからないところだらけだけれど、不思議と面白い。ああ、あと現実世界と異世界の関係性とかもよくわからん。この点は『安達としまむら』でも気になる部分なのでこれからも気が向いたら考えたい。

 

 あともうひとつ書くことがあったはずだが忘れてしまった。なんだっけな?

 

 思い出した。

 

 『ゆるキャン△』の世界について

 ネットで見かけた嘘で塗り固めれたゆるふあ世界観みたいな見方。そういいたい気持ちもわかるような気がするけれど、意外とぼくの現実の世界もそういつも殺伐としていているわけでもなく、ひとりでいる時でも、だれかといる時でも、どっちでも構わないが、なんだかよい気分だなと妙な感じに浸れる時間はある。

 あれ?書こうとしていたのはこんな話だったっけ?

 まあ、半分嘘半分本当な感じでぼくは見ている。でも、嘘であっても見ていると楽しいだから不思議だ。