忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

今朝の続き、その他

 今朝の文章はかなり中途半端なところで終わってしまったので、もう少し書いておこうと思う。否定的な側面だけでなく、考えてみたい。

 

 否定的な側面のお話から

 『銀魂』とか『かぐや様は告らせたい』とかがギャグとして成立する背景。作品そのものが持っているホモソーシャルな雰囲気。連載されている雑誌の読まれる場所、つまり、あれが読まれているのは中学校や高校の校舎なのだ。校則を考慮の外に置けば、この種の傾向の作品を読むのに学校ほど教育上、ふさわしい場所もない。気の置けない連中とわいわいしながら感想を語れる。(書いていて、ぼくがニコニコ動画を楽しめない理由が今わかった。)そして、トランプさんのようなひとがする猥談は嫌いなくせに、こっちはほんのちょっぴり楽しむ自分。もっとも、マンガを読むことは個人的な行為であるため、権力構造とは何の関係もないと言い訳はできる。でも、その言い訳にどれほどの意味があるのか。

 どんな言い訳をしたって、社会のいたるところにホモソーシャルな環境と親和性の高いコンテンツが存在し、そんなコンテンツが権力構造の維持に寄与するところもあるだろう。ぼくは今のテレビをあまり見ないのではっきりとしたことはいえないわけだが、そんなコンテンツがあったりしないのか?日本社会は変われるのだろうか?

 月並みな解答になってしまうが、ホモソーシャルな雰囲気をもつコンテンツを排除しても仕方がないし、それはできないだろう。なので、こうしたものにバランスする別の指向性を持つコンテンツが必要になると思う。何かしらあるだろう。ぼくが気づかないというだけの話。いや、待てよ。ぼくは『銀魂』や『かぐや様は告らせたい』の感想は書きたいとは思わない一方で、やたらと言及する作品もある。ぼくの中でなにかとなにかをバランスさせるためにそうしているわけではなさそうだが、ヒントにはなりそう。でも、それが社会全体でバランスさせるのに何か役立つのか?よくわからん。こんな問題意識があるのは、長い時間をかければ差別は消えるような気もするが、ホモソーシャル的なものへの指向は残り続けるだろうという予感があるからだ。同時に、それに不快を感じるひとも残り続けるだろう。で、ぼくもそちら側の人間だ。

 

 肯定的というよりも認めざるを得ない現実として

 自分の経験からいっても、森さんに関する話を聞いても、思うこと。そうした権力構造によってなんだかんだいいながら現状、物事が進められてくことが多い。この現実をどうすりゃいいのさと。現実の社会における貢献度を見れば、森さんとその背後にいるひとたちは高い。その種の人間はよく社会に貢献しているとも言える。

 ぼくの個人的生活に関することであれば、ある種の不快くらいは我慢しようかともなるし、場合によっては、自分が不利益を被って、なんとかすることもできるかもしれない。では、オリンピックとなると?

 ホモソーシャルな環境に依存する権力構造を推進力にして物事を片付けるのを止めようって社会になるのだろうか?この点に関しては、ちょっとなにも想像できない。いや、できたのだけど、それは別の問題を孕む。

 

 自分の考えの限界

 別の可能性として葉山隼人を思い浮かべしまった自分の限界。

 これはこれで問題がある。少なくとも、『俺ガイル』を見ているとき、ぼくは葉山隼人的存在から卒業しなくてはいけないと思っていた。難しい決断を迫られた時、ぼくらは最終的に超越者の「ご聖断」を仰ぐ。隼人なら「選択しない」ことを含めて、ぼくの期待に応えてくれた。これは「天皇」だ。この権力構造も広く現在の日本社会で親しまれているのではないか。ぼくらの社会には至る場所に「小天皇」が存在する。少し古い話になるが日大アメフト部の内田元監督とか、ぼくにはそんな感じのひとに見えた。(非常に面白いのは、こういうひとを叩ける状況になるとみな徹底的にやる点。日頃の鬱憤を晴らすかのように。)そして、葉山隼人にも、その監督にも、さらにはそこにぶら下がるぼくのようなひとにも醜悪な何かが見てとれる。葉山隼人を頂点にする権力構造も森さんを頂点とする権力構造も醜悪であることに変わりはない。

 実に参った。自分も何にも変わっていなかったのだ。はやいとこ憲法改正して共和制に変えよう。

 権力に関して考えたことはここまで。この先も考えるかは不明。あまり面白くないのだ。向いていないのだと思う。

 

 (追記 そもそも、葉山隼人を別の可能性として思い浮かべたのが失敗だった気がする。二つの権力構造を全く別のものと前提していたのが誤りであるかも。どちらも日本ではよく見られる現象なのだから、それこそ親和性が高く、相互補完的であるかもしれない。ぼくが葉山隼人を想起してしまった言い訳。彼はまずロッカールームで下ネタを言わなさそう。彼への迎合を拒否しそう。そんな思い込みによる。前者は冗談半分だが、後者はけっこう大事だと思う。この迎合こそ醜悪の根源ではないか?見ていてきもちわりーんだよ。)

 

 なので、今日の残りは愛について書こう。

 また少し理解が深まったという話。

 『ヴィンランド・サガ』の神父ヴィリバルドのことば「愛とは差別」。ずっとこのことばの意味がわからなかった。聖書に出てくることばなのだろうか?それも知らない。しかし、最近たまたまあることで少しだけわかったような気になっている。島村に教えてもらったのだ。彼女が感じる特定のだれかとの距離を詰めることに対する後ろめたさ。それこそ、差別に対する自覚が生み出したものではないのか?と。いい線いってるかなと久々に思ったのだが。

 ただ、この問題は現実に思い知らされる、そんな形でしか知りえないとも思える。後ろめたさに対する感受性はあっても、後ろめたさを自覚することのないぼくにわかる日はくるのだろうか?おしえて、しまむら