忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

前回の続きとか

 世間で話題沸騰かは知らないが、ツイッターで感情論が馬鹿にされているらしい。「冷笑系」が感情論を馬鹿にする構図なのか?

 ぼく自身は冷笑系なのだろうか?それに近いものはあるのかもしれないが、敗北主義者というほうがより自分をあらわしているような気がする。冷笑系リベラル敗北主義者ってことになるのだろうか?クソみたいな属性だなと我ながら思うが、まあ、属性なんぞは何でもいい気がする。ところが、何でもよくないこともある。それは感情論を馬鹿にすることについて。感情と理性をくらべて、理性に軍配をあげるということか?ぼくにはそんな判断はつかないが、小林秀雄の描いた宣長像から感情的ということをみてみるとどうなるのか?そこには興味がある。もののあわれについての話だ。たしか、もののあわれを知るとはセンチメンタルに感情に溺れることではないという話だったと思う。このことが未だにぼくなんかにはわからないわけだ。わからないなりに考えていることは、こころに去来するものをことばにしてみるという作業で、これは話しことばでも、書きことばでも構わないが、とにかくそれをしてみる、ことばとして形を与えてみる。日々の会話からこの日記を含めて、そんなことをやってきたわけだが、形になったといっても、客体化するというような大層なことでもなく、仮に客体化できたら、それが即ち知るということになるのか?そんなこんなで自分でもよくわからんとなる。そして、これもよくわからんなりに最近では死んだ犬に歌を送ってみたりすることでこれが「もののあわれを知る」なのだろうか?と気儘にやっている。まあ、宣長なら感情的であることに対しては厳しいのではないのかと思う。無論、もののあわれを感じるこころがあるということが大前提ではあろうが。

 小林秀雄についていえば、初期の文芸評論はともかく『本居宣長』が読みにくい文章ということはないように思うし、『学生との対話』と並行して読めば、内容の輪郭もつかみやすいと思う。ぼくは『学生との対話』はかなり後になってから読んだので、併せて読んでおけば楽できたと後悔した。まあ、楽といっても授業で楽ができるという程度の話なので大したことでもない。ただし、読みやすい文章だから内容が簡単ということにはならない。何しろぼくも未だに理解できていないのだからあまり偉そうなことはいえない。

 あれこれいらんことを書いたわけだが、ぼくも結局、小林の初期の評論が好きで、読み続けたみたいなところがあるわけで、やはりあの気障な修辞は真似できないし、しようとも思わないが、いいものだなと思える。そういえば、文学から離れた小林を坂口安吾が嘆いていたような記憶があるが、安吾は『本居宣長』を読んでいるのだろうか。安吾の死に『本居宣長』の完成が間に合っていたか、どうかをぼくは知らない。でも、病床で読んでいたりするのだろうか。そうであってほしいと少し思った。

 

 それと『安達としまむら』は原作のほうもぼちぼち読み進めている。

 ただ、ふりだしに戻ってしまったような気がする。この作品に接してはじめのほうで感じた疑問が再び湧いてきた。

 なぜこのふたりの少女は自意識の語りを止めないのか。

 そもそもおかしい。彼女たちはだれかに伝えることもなく、自分や相手について語る。彼女たちのことばはだれにも伝えられることなく、静かに佇む。これはおかしなことではないのか?いや、この見方がおかしいのか?静かに佇んで、応えることはないが、聞き手はいるのかもしれない?それはだれ?って話だが、だれなんだろう?読者ではないことだけは確か。

 まだ例の卓球台を安達が見つめる場面には到達していないので、今からそこが楽しみだ。

 

 犬に送る歌

 ドア開き聞こえた声も今はなく

 ただ隙間風のみ吹き来る