忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ラノベのほうを読んで

 今日は夜から『安達としまむら』の放送があるので、それまでの時間を時間を使って、日記を書いておこう。

 先日、西郷について少し書いたが、もうひとつ書きたいことがあったのを忘れていた。これも覚えてたら、いつの日か、書こう。

 それで今書くことは、『安達としまむら』のラノベを読んでのメモ。

 2巻の途中なのだが、この時点でも細かい点でいろいろと確認できた。

 

 ヤシロは安達と島村に本当におごっていた。お金を持っているのか。神社の賽銭箱から失敬したのだろうか。宇宙人らしく催眠術をつかったのだろうか。そこはよくわからない。

 

 安達は島村の提案なので、カラオケを選んだみたいだ。島村がカラオケを提案した理由はよくわからない。それとカラオケで歌った曲はラノベとアニメでは別のものだったみたい。ラノベのほうは伏字になっているので、特定できていないので、後で検索してみよう。

 

 こどもは馬鹿で、無防備な存在というのは間違って記憶していた。正確には「バカで、奔放で」だった。今後は表記は原作に準拠しよう。でも、こどもの表記については「子供」ではなく「こども」のままにしておきたい。ぼくはそもそもひらがなが好きなのだ。だから、ぼくは結構「しまむら」という表記は好きだぞ、島村。

 ところで、どこで間違った記憶に改変されたのか。島村も安達も無防備に見えたということだろうか。膝枕するのも、されるのも無防備だ。きっと、これだ。「バカで、奔放で」無防備な存在と書けばいいのだろうか。さらに残酷もつけ加えたい。吉本の『西行小論』を読んで、連想していたのはこのことだった。こどものもつ残酷性。池でつかまえたオタマジャクシをペットボトルに詰め込んで、思い切り振り回すみたいなやつ。入間さんも、西行さんも、吉本さんもこどもを見ると、この残酷性も内包するような生命力の輝きや純粋性を感じているのではないかと思う。そして、それは高校生になった「しまちゃん」にもあるとぼくには思える。安達やヤシロに残酷な感じはないか。安達は残酷かもしれない。日野にはすこしありそう。永藤はどうだろう。少なくとも、日野の明るさはどこか歪だと感じられるように描写されている。ここは原作でも要チェック。

 

 大事なことを忘れていた。安達と島村、彼女たちの独白、自意識の語りについて。今まで読んだ印象としては、何かの説明としてなされている部分はあるにしても、それとは少し趣の違ったものが混じっているように感じられる。説明なのだとしたら、それは読者向けということになるだろう。『俺ガイル』の八幡のそれはそういう点では非常にわかりやすい。奉仕部である性質上、問題が持ち込まれ、事件がおこるので、彼の独白によってことの成り行きを知る。もちろん、彼の独白も説明だけではないわけだが。

 本来なら、もう少し仔細に見て、引用して書かなければいけなくなるが、日記ではやりたくない。なので、チョロっと書き流しておこう。

 彼女たちの独白に読者に対する説明的要素だけではなく、ある種の告白に近いものを感じる。告白といっても恋情を伝えるものではない。独白の内容がお互いのことについてであれ、自分自身のことについてであれ、聞き手は定かではないが、真剣に語っている。具体的な聞き手を必要としてなさそうなのに、そこにはきっと聞き手がいるはずと錯覚するような不思議さ。その不思議な告白には予め相手に伝えることがない自覚からくる孤独を感じさせるようなものがあり、それゆえに、真実のことばになっているような感じ。なので、島村が信頼のおけない語り手という解釈は捨てた。まあ、うまいことは書けない。

 ただ、これは何といえばいいか。このことについては作品の大事な要素でもなさそうな気もする。ぼくの趣味がそういう解釈を導いているだけなのかもしれないし、著者の性質に引きずられいているだけかもしれない。とりあえずは、読み続ける。うーん、難しいな。

 

 もうひとつ大事なことがあった。安達がモジモジしていることについて。あのためらいはなんなのかという点。百合歴の浅さが原因なのか、読み込めない。そこで、整理用メモ。

 ①ある女の子が自分は女性が好きであるという自覚を持って、女の子を好きになる場合

 ②ある女の子が別の女の子に恋をしてはじめて自分が女性が好きであるということに気づく場合

 ①と②できっと描写は変わるはず?

 安達はそもそも①なのか、②なのか。そこもよくわからない。安達の初恋は島村なのか?読み進めていくとわかるのだろうか?

 それと面倒なので、今日は書かないが、島村がどのようなタイプの恋愛を志向するのかによっても、描かれ方というものは変わってくるのだろうし、そういうものをテーマにした百合作品もきっとあるのだろうと思うのだが、どうなのだろう。

 『ユリ熊嵐』や『やがて君なる』、あとギリギリ『魔法少女まどかマギカ』くらいしか百合作品を見ていないが、この三作品についていえば、どう描かれているのだろう。

 『ユリ熊嵐』はそこらへんはすっ飛ばしているように見えるが、お互いに②に該当するのだろうか?

 『やがて君になる』は小糸も七海も②なのか?

 『まどマギ』は片思いっぽいけれど、ほむらは②か?

 まあ、それぞれの作品のテーマに合わせて、この辺の描写が必要ないのかもしれないし、今のぼくでは理解できそうもない。

 だらだらと書いていて、思い出した。

 『まどマギ』も共同幻想と対幻想が対立する話に見える。このふたつが両立できない状態を描いている。まどかの願いから生まれた世界はまどかを供物に幸福な世界となったが、それとほむらの対幻想が鋭く対立して、彼女は悪魔になる。

 とか書いて分かったような気になるのがいけないかもしれない。

 橋爪大三郎だったと思うが、レヴィ=ストロースの「構造主義」というものが流行ったときがあるらしいが(昔そういうことがあったらしいという伝聞なうえに社会学ことは全然知らないので違う人かもしれない。)、彼の神話の構造分析をまねてやってみると実際には彼のようにはうまくいかないという話をしていた気がする。レヴィ=ストロースの料理の腕が天才的であるから、うまく調理できているだけで、凡人のぼくのようなひとがやれば、それは食えたもんじゃないということだろう。(あまりにもぼくの身に覚えのある話だったので、間違った記憶なのかもしれないが、強烈な印象が残っている。)

 実際、自分に限って言えば、その通りだ。加えて、吉本の『共同幻想論』の理解について、ぼくの場合は甘いところがあるので、軽々に理解のあやしい概念を振り回してはいけないと自分でも思う。それでも、確かなことは、『まどマギ』という作品がそういう構造でできあがっていること、そこは揺らがない。そこで、ぼくの興味を引くことはいろいろあるが、なぜこういう構造をもつ作品を自分が面白いと思うのか?こういう構造があるから面白いのか?それとも、面白いものをつくろうと思って、無我夢中でつくったら、そういう作品になったのか?

 以前にも書いたかもしれないが、『古事記』なんかはきっと頑張って作ったら、ある構造を持つに至ったのではないかという気がするのだけれど、時間があったら、こういうことを勉強してみたいなと思う。

 

 ご飯も食べたし、あとは放送が始まるまで、ごろごろしていよう。