忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

『テクストから遠く離れて』感想文

 『テクストから遠く離れて』(加藤典洋)を読んで

 

 読み終わってから1週間たってしまった。面白かったので、感想を書こうと思いつつ、書かなかったのは2周目に行こうか、どうか、迷ってたからで、グズグズしているうちに時間だけが過ぎた。

 以前読んだときの感想とか記憶にないが思い出したのはミシェル・フーコーの「作者の死」に関する加藤さんの解説を読み飛ばしたこと。正直に言えば面倒だったのだ。今回は読んだのだけれど、まだよくわからないところがあるので他の文献を参照しながら、もう一度読もうか、今も考えている。

 あ、それと今回は講談社文芸文庫におさめられているほうを読んだ。引用もそこからのものとなる。

 それでは以下、メモ。

 

 面白かったところ

 ①村上春樹海辺のカフカ』の加藤さんの読み

 

 ②加藤さんの試みた脱テクスト論の試みについて

 加藤さんはテクスト論の文脈では読み込めない小説が出てきたためとしている。ぼくはこのへんは素人なのでよくわからない部分がある。以下、自分の理解を確かめながら、ぼくの考えたこと、感じたことを述べていきたい。

 

 まず、テクスト論について。

 今では作者と作品を切り離して見る、読む態度はどう受け止められているのか?ぼくはある映画を見ていないが、その映画について原作者と作品は切り離して考えるべきという意見を最近、ネットで見た。そうするとこうしたテクスト論的態度で作品に臨む人は意外と多いのだろうか?

 それに反し、ぼく自身はけっこう作者という存在を意識して読んでいる。が、作者と読者という関係性それ自体、近代の擬制という認識からテクスト論が出てきたということを踏まえると、ぼくの態度は単純な作者還元主義に映り、古臭いのだろう。加藤さんの脱テクスト論の試みはぼくのとは違う。テクスト論の読みの限界をいくつかの作品の読解という実践の中で例示し、「作者の像」を仮構する必要性を説く。

 脱テクスト論の試みが必要なのはそういう作品が存在するからなのか?たしかに、そうなのだろう。そういう作品が生まれる土壌である社会というものついて考えてみようか?など様々な広がりをみせる。しかし、それだけなのだろうか?加藤さんにはそれを「あえて」やる必要があったのだろう、と考えている。

 「大衆の原像」ということばがかつてあったらしい。今でも、このことばを大事にしているひとがいるのか、は知らない。ただ、ぼくにはこの概念も「あえて」仮構されたものだろうという思い込みがある。この「大衆の原像」ついては、いろいろと批判があったみたいだ。以前なら「大衆の原像」を想定することに意味はあったが、現在では想定できる大衆自体が多様化して、「大衆の原像」という概念では捉えきれないという主旨の批判を聞いたことがある。はたして、本当にそうなのだろうか?以前も、これからも大衆の実相を捉えた、あるいは、捉えることはありうるのだろうか?という疑問。正確な大衆の把握など、できもしないことを望む必要はない、そうは思うが、ぼくの結論は「大衆の原像」を役に立たない概念と考えるひととは反対になる。正確な想定はできなくとも、今でも「あえて」する必要があるだろう、と。

 余談めくが、あえて話を脱線していこう。以前にもこの日記で「煽るメディア」問題に関心がないと書いた。これはもっと正確に述べればよかったかもしれない。メディアが煽るだけなら問題はないだろう、なので、そういうメディア批判をするひとたちは暗黙裡にメディアの煽りに「のっかる国民」を想定している。「煽るメディア/のっかる国民」、この構図で見ているのだ。こうしたものの見方は「政治家/有権者」、「お笑い芸人/視聴者」と様々に変奏する。このような大衆社会論に依拠する識者の代表は丸山眞男だと思っているが、現在もこの種の識者は健在で、ツイッターでも散見される。(海外での代表はオルテガなの?)ぼくはそういうひとたちを批判はしないし、できない。あるものの見方としては正しいと思うので。それでも、ぼくはそういうものの見方はしない。なぜなら、かれらに欠けているのはその「大衆の原像」だと思うからだ。

 

「何も知らずに生きていくことが、生きるということの原形である。何も知らない人間に適用できないことは、普遍的でないという以上に、考え方として弱い。あれだけ明哲な頭脳をもつフーコーが、こういう人間の生の側面に思い至らないとは信じがたいのだが、人がある場所で何も知らずに生きる経験は、彼が何かものごとを考えていく際に引照すべき、最終の、そして最強の、試金石なのである。」(『テクストから遠く離れて』p.318)

 

 加藤さんの遺したこの文章にぼくは共感する。でも、これが正しいという自信はない。加藤さんには自信があったかもよくわからない。でも、かれは脱テクスト論の試みに挑んだ。また、『敗戦後論』もあえて書いたのだろう。

 さて、それでは、ぼくはどうするかという話になる。本の読み方、ひとつとっても考えてみないといけないと日々、いろいろ間違えを繰り返しながら、模索中である。自信とかいらんのだと思う。

 

 ③脱テクスト論の枠組みを超えて「読む」ということについて

 加藤さんが『テクストから遠く離れて』で実践して見せてくれたことは「読む」という行為自体が一種の創作であるということだった。作者の作る世界とは別に読者の作る世界があるということ。これは作者還元主義に立とうが、テクスト論に依拠しようが、読者の作る世界が存在する点では共通するのだと思う。なので、これからも感想を日記に残していく予定。与太話が好きなので。

 また、加藤さんの著作では村上春樹に関する本はまた読んでみたくなった。「批評」それ自体が加藤さんの場合は作品として成立していると思う。

 

 ④こころやさしい「リベラル」

 「リベラル」のところ含め、ぼくもそうでありたい。無理はしないけれど。本の感想から逸脱してしまったが、気にしない。

 もうちょっとちゃんと書こう。先に引用した加藤さんの文章を歴史の流れに人間というものを置いてみたとき、ただ生まれ、生き、そして死んでいく、その限りにおいて、知識人であったフーコーも何も知らぬ大衆も変わりない、その視点があれば、何も知らず生きる経験を 捨象して出てくる考え方なんてとらない、とぼくは解した。この視点を失わないところが加藤さんのやさしさの根底にあったと思う。会ったことはないが、文章を読むとそう感じる。