いくつかの疑問のメモ
疑問その1 ポストモダンの日本における受容のされ方について
ぼくが学生のころ、ポストモダンとか既にもう流行ってなかった。
今の学生さんなんか、どうなのだろう?ポストモダンというよりもマルクス・ガブリエルとかがはやっているのだろうか?ぼくはまったく彼のものを読んだことはない。
先日、加藤さんの著作を読んでいて気になったこと。
特にフーコーなのだけれど、なんでこの人は権力なんてものを執拗に考えていたのだろう?そこが気になった。戦中のひとなのか?それで、ポストモダニストと世間で認知されているひとの生年を調べてみた。
ラカン 1901
バルト 1915
フーコー 1926
デリダ 1930
ドゥルーズ 1925
ガタリ 1930
クリステヴァ 1941
もう面倒だ。並べるのはこのくらいでいいか。
ラカン、バルトは世代で上のほうに、クリステヴァは下のほうにずれている感じ?当時の感覚として生年の10年、5年とかどういう違いがあるのだろう。住む地域によっても違うか?たとえば、東京なんかは1964よりも前を知っているか、どうかで随分と違う気がする。ぼくは東京の街で野良犬にあったことがないので、知らない側の人間だが、オウム事件でゴミ箱が消える前の東京は知っているな。バブルもよくわからない。はじけたのはいつとされているのか。長期停滞の時期は生きていたのだけれど、これも実感は特にない。はじける前を知らないので、浮き沈みという感覚がない。まあ、よくわからん。
終戦時、彼らを除けば、今でいう高校生から大学生くらい?
吉本隆明 1924
吉本も権力についてはよく考察していたと思う。
戦争が彼らに及ぼした影響なのだろうか?彼の米沢の高等学校時代の話は面白い。面白いとか言うと誤解されるか。今の日本もそんな感じだよ、と思いながら読んだ。少なくとも、ぼくはその話を読まなければ、吉本に興味を持たなかったように思う。
柄谷行人 1941
浅田彰 1957
加藤典洋 1948
日本ではポストモダンのどこらへんに関心を持って読まれたのか?
平和の時代の若者だった彼らはどこら辺に関心を持ったのか?あるいは、これはぼくの勘違いで平和という実感はそれほどなかったのか?平和ではあったが貧しかった、貧しさがなにに起因するのか?そんな文脈の中でポストモダンに向かったのか?
嫌味でも、皮肉でもなく、たまにテレビで見かけるぼくと同世代くらいの識者のひとの話を耳にすると権力についてそこまでまじめに考えているふうでもない。まあ、ぼくもこの点はそのひとたちと同じようなもの?、かれらはどうだか、知らないが、ぼくは権力について考えるのが正直、楽しくない、それだからちっともやろうとは思えない。
なんといえば、いいのだろう?ポストモダンの日本の読まれ方は平和の時代の若者の知的好奇心を満たした、ある種の流行の中で読まれて、廃れたということなのだろうか?ただ、廃れた思想が持っている力が弱いということはないのだろう。何度でも甦る可能性はある。きっと、どこかのだれかが読み直す時代とかくるのだろう。それをぼくと同世代のひとがやったら、もしかしら関心をもって読むかもしれない。
疑問その2 多様性について
ぼく自身が偏屈な人間だから、多様性のある社会のほうが過ごしやすそう、という考えに変わりはない。
で、ジェンダーの多様性ってなんなのよって話。
ざっくりと考えたことは生物学的な男女、それも今はスペクトラムとしてみるといつだったか、NHK でやってたが、その生物学的な男女というものが意味をなさない範囲を拡張するのが実質的な多様性につながるってことなのかなと。
例えば、恋愛において生物学上の女女の組も同性愛ではなく異性愛のこともありうるよね、という感じ。恋愛は自己規定の性しか関係ないとも言える。
生物学的な性/自己規定の性
女/女と女/男なら異性愛。異性愛であることはお互いの間で共有されていれば十分で、社会との間で共有される必要なし。なので、社会から制約や抑圧を感じるようなことにならないような社会の在り方が問われることになるのだろうか?
ところで、『安達としまむら』はどうなのだろう?
もしかしたら、自己規定の性なんか、気にしてないかもしれない。前にも書いたが、ひとりの人間がひとりの人間を愛する、それだけのことかも。今のところはそういうふうに読める。
女/特になしと女/特になしの組は異性愛でも、同性愛でもないということになるのだろうか?まあ、なんだ、こと恋愛に関して言えば、生物学上の男女とか、もう考慮してなくても構わないのではないの。そして、それは恋愛だけでなく、もっといろいろな範囲に拡張すればいいじゃんと。
それと自己規定の性については、社会的な了解は必要ないと思う。ぼくが自分の性をどう認識しているか、それを社会に認めてもらう必要はない。具体的な人間関係の中でだれかにそれを分かってもらう必要があるとき、そのひとに分かってもらえれば、それで十分。公的な領域と私的な領域において生物学的な性/自己規定の性にどのような制約が課される必要があるのか?私的な領域についてはほぼ制約なしの方向にいくのだろうか?
その多様性の中で不便なことが出てきても、ぼくはいずれは慣れるだろうという気がする。慣れたら、気にならなくなる。まあ、慣れるまでは面倒くせーとか思っちゃうんのだろうな。きっとそれでも多様性のある社会のほうがぼくには過ごしやすく、楽しいのではないか。