忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

いまの若者の気持ちがよくわかるとか主張するつもりはないが

 ネットで見かけた若者のコンテンツ受容論について

 作品を倍速でみる若者たちみたいな話は理解できるかも。なぜ若者がそうするのかを理解できるという意味で。

 ということで思い出話から始めよう。

 図書館は静かなところだ。そこが好きでよく通っていた。静謐な空気の中で書架に整然と並ぶ本を見て、ときたまめまいがしたものだ。これだけたくさんの本を読み切るのにはぼくの人生だけでは圧倒的に時間が足らない、と。茫然としたまま、手にした本を1ページもめくることなく、ただ昼寝だけして帰るという充実した時間を過ごせた。

 それとだいたい同じようなことだろう。

 いまの若者からしたらリアルタイムで見れる作品に、さらに過去作品まで加わる。アニメなんかは自分のこども時代とは比較にならないほど多い。膨大な作品群が列をなして待っているのだ。倍速で見ようとなるのはある意味、普通のことではないだろうか。

 そして、その効用もあると思う。多くの作品に触れることでパターン認識化が進んでいるのでは?ようはどんなタイプの作品かの理解がはやいそう。そのこと自体の良し悪しについてはよくわからん。パターン化された理解によって細部がないがしろにされる可能性など。

 

 批評やスポーツ観戦を嫌う若者像について

 端的にいって、論旨が呑み込めない。

 まず、ツイッターから若者の実像を掴むという方法論がぴんと来ない。ブログなんかをのぞくと全く別の若者像が浮かび上がってくるような気がする。ぼくよりも若い人によるサブカル評を読むと、きめ細やかで感心することのほうが多い。ツイッターとブログとでは生息する層の違いがあるのかもしれないけど。あるいは、ぼくがツイッターをやらないから、なにもわかっていないだけなのか…

 それはそれとして、大先生の批評がおもしろいとか、スポーツ観戦がおもしろいって時代が終わったのではないか。

 ぼくはけっこう批評というか、だれかの感想を読むのが好きなほうだが、なにを読んでいるのだろう?いちいち考えたことはなかった。でも、あるブロガーさんのアニメ評はおもしろい。あと、『安達としまむら』のファンの方々のブログもおもしろい。『やがて君になる』の感想もブログでいろいろと読み漁ったな。そのひとだから出てくる感想とか感覚みたいなものを味わえるからってのがあるが、そのとき、書き手が有名であるか、無名であるかは気にならない。大先生の本はよっぽどその著者に関心でもない限りは買わない。ブログの感想も大先生の批評も同じ棚の上に並んでいるのだ。そもそも現代では批評の大先生がいなくなった、成立しえなくなったってことかも?ある系統の作品を時代の流れに沿って追うことはできそう。ところが、同時代の作品をサブカル含めて、同じ文体で語れる批評家って現在いるのだろうか?サブカルの意味内容が変わり(ことば遊びに受け取られると困るが、サブカルは今はサブカルではない)、同じ文体で語ることの倫理性が失われただけかも。脱線。

 スポーツ観戦が人気ないのはゲームがあるからだと思う。だって自分でゲームするほうが楽しい。それはスポーツもそう。ゲームにもMOBAみたいなのもあるわけだし、ストレスに弱い若者とかよくわからんな。

 耐久力に劣る若者みたいなイメージはちょっとぼくには理解できないかもだ。このことに限らず、学力の低下等々、劣化する若者たちみたいな話はだいたい、ものさしのほうがぶっ壊れてるんじゃないの?すくなくとも、その種の若者劣化論に対して自分が学生の時はそう思っていたし、今の若者もきっとそう思っているんじゃないだろうか。

 

 まあ、でも若者から好かれようという下心から、こういうことを書いていると思われるのは癪だ。なので、最後になんか難癖のひとつくらいつけてやろうと思っていたのだが、そこまで若者に関心がないせいか、何も思い浮かばない。

 

 いつまでも若いままでいられると思うなよ。十数年もしたら、ぼくとおんなじぽんこつだぞ。はやいとこ、こっちにこい。こんな感じでいいだろうか…

 

 愛犬を失った悲しみか…ぼくは二日くらいなにも食う気がしなかった。その後、おなかが空きすぎて…今に至るが、いずれにせよ、体を大事にして欲しいな。