忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

書くことにまつわる変なこと

 いつまでたっても『安達としまむら』7巻を読むのに移れないので、もうフーコーのお勉強は後回しにすることにした。

 なので、ぼくが『テクストから遠く離れて』を読みながら考えた。書くことに対する疑問に関するメモ書きを残して、このことについては一時中断とする。

 ぼくがこの日記である程度、文章の体裁をとるようになってから感じたこと。それはうまく書けないということだった。その原因を探ると自分が理解できていないことを言語化しようとして、うまくことばにならない場合がある。似たようなケースとして、ぼんやりとイメージがあるものの適切な言語表現が見つからない場合。このふたつについてはぼくの頭の精度の問題である。もしかしたら、これは時間が解決してくれるかもしれない。

 で、今日メモに残しておきたいのはもう少し違う問題。うまく書けないと感じる時、なんか書こうとしていたものからずれていっているな、という感じ。どうにも不思議なことである。このケース、なにかから自分を守っているとか、危険なものを回避しているとか、そういう感じもあるし、自己イメージといえばいいのかしら?、それからずれている、ずらされている感覚かもしれない。

 この自己イメージからずらされているケースがフーコーの権力分析で見るとどうなのか?という疑問。まあ、これはこれで、またなんか文献にあたらなくてはいけないのかもしれない。自意識は近代の擬制なのか?なんで、そんなことをおもったのか?文章を書いていて、自己イメージからずらされているなと感じる時、その自己イメージはフーコーパノプティコンを考察した権力論における「看守」みたいなものじゃなかろうか?と。うーん、書いていて思ったけれど、どうでもいいことだったかもしれない。

 なぜか?ずらされているとして、それはなにによってなのだろう?自己イメージという看守的な役割の権力?なんかそれは感覚的に違うな。ずらされているのは結果的にぼくにはよいことのように思えるから。むしろ権力の暴走を止める憲法のほうがイメージとしては近いような。自己イメージが憲法的という認識。

 うん、そういうことにしておこう。今日からは小説を読むことに戻る。

 いやいや、大事なことをまた書き忘れた。

 ごくまれにうまく書けた気がするときがある。それは文章としてうまく表現できたという話ではなく、先述した自己イメージが姿を消して解放感があったとき。書いていて気にかかることがない感じ。まあ、やっぱりよくわからんかもだ。

 

(※追記 フーコーは権力の匂いがしたら、即、問題視したのか?そこは気になる。自己イメージが憲法的な機能という認識から出発すると逆の見方になりはしないか?憲法は権力をコントロールするためにつくる。何が逆かというとフーコーは近代そのものを疑っているのだとしたら(彼のいう「主体化の死」)、それとは逆という意味。なので、そこを確認したい。これはぼくの誤読かもしれないので。ただ、フーコーの権力論はすげーなって思う。なにかごく一部のひとが触れることのできる特別な資料から思考が出発しているわけでもないよね。それだけでもすごいことだと思う。)