忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

『安達としまむら』について

 『安達としまむら』についてちょっと理解が進んだと思う。

 その存在がなんであるのかについての明言は避けるが、ふたりの独白は視聴者、読者以外のなにものかへ向けられていることを仄めかす。無論、互いに相手を想定しているわけでもない。こうした読みが許されるのなら、この作品は視聴者、読者がいなくとも成立する作品といえるのではないか。「視聴者、読者の不在」の作品。受け手が置いてけぼりと言いたいわけではない。不在でも成立しそうな感じを抱かせるのだから、大したものである。むしろ美点である。明言を避けた理由は単純でよくわからないから。頭にうかんでもなんかちょっと違うとなって消える。

 もうちょっと真面目に考えないといけない気もするが、不在というよりもいわゆる神の視点で成り行きを予測し、見守る存在が不要という感じかな?テクストと読者の関係という話になるのだろうか?あるいは、作者による読者の態度の想定となるなら、作者と読者の関係?

 「読者の死」とかすでにどこかで、だれかが言ってそうでもある。でも、誤解を生みそうな表現は難しいのだな。神の視点ではない、別の態度で臨んでこそ見えてくる文学の系譜。そういうのがあるのではないか。別の読み方を仮構する必要性みたいな。がきんちょのときどうやって読み、見ていたのか。神の視点ではなかったことだけは確かだ。なぜそんなことを気にするのか?読むとか、見るってのはつまるところ何を楽しんでいるのか?それがちょっと気になる。

 というか、今でこそ紙も映像もあって、明確に受け手を想定できるけれど、むかしむかしはどうだったんだろう。いつごろから人間は物語はじめたんだ?

 

 神の視点で見るとつまらなくなるとぼくが思っている作品、『進撃の巨人』で地ならし以降のエレンを裁断するひとたち。好きにしてくれという意味で別に異論はないが、この現象については自分なりの解釈はでた。ひとは「正しさ」を求めると。吉本の『転向論』は示唆にあふれていたのだなと気づく。日本人の特質とも思えないが、「正しいとされていること」への強迫観念。自分を見ても、これはこれで面倒な問題だ。「冷笑系」とひとくくりにはできないのだろうかれど、世間で言われるほどには冷笑していないのかもしれない。不可避な「可誤性」から出発した吉本の足跡を追うとどこに至るのか?だいぶ前の話になるが、ふたりのひとが吉本を怖いといっていた。危険な男だと。ひとりはよく拝見するブロガーさんで、もうひとりは恩師。最近その意味をようやく諒とした。でも、読んでいて面白いのだ。ホトトギスは本当に存在するのかとか言い出すくらいに。罪な男だ。

 

 今日書いていて気が変わった。加藤典洋さんの『敗戦後論』を読み直そうと思っていたのだけれど、『テクストから遠く離れて』にしよう。確か、そういう話が書かれていた気がする。『安達としまむら』の7巻はそのあとにしよう。