忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモだからいいのか、でももうすこしちゃんと書こう

 先日の続き

 権力というものに対する問題意識の違いかな?例えば、今だと猛烈に菅政権を批判しているひとにも、熱烈に擁護しているひとにも違和感がある。端的にいえば、ぼくはこのひとたちを理解できない。あ、これはお互い様かもだ…

 

 吉本がなぜ権力について考えたのか?やっぱり戦中の高等学校の経験があったからだと思う。彼にとっての生々しい権力は高等学校という生活空間の中にあったはずだ。その延長に政治権力を見据えていたのではないか?だから「大衆の原像」という発想になったのかなと…

 加藤さんの世代ではどうだったのだろう?学生運動は当時の政治権力と戦っていたということなのだろうけれど、加藤さんはきっと学生運動内部の権力にも敏感だったと思う。まあ、これはぼくの勝手な推測。時代を遡るが、埴谷雄高は運動内部の権力に対して当初からかなり敏感であったと思う。

 で、さらに時は進み、学生運動も下火になって日本のポストモダンの旗手の影響を受けた世代ってなると?いろんなところから石が飛んできそうだけれど、知的遊戯としての政治権力考察になっていたのではないのか、ぼくはそう思っている。このことばにそれほど批判の意味はない。なぜか?日本が豊かになっていたから、という身も蓋もない話。政治権力批判よりも楽しいことがたくさんあったのだろうと思う。

 そして、さらに時が進み、ぼくの世代。権力とか、それっておいしいの?そんな感じかも。まあ、同世代でも政治権力の構造分析をまじめにやっているひととかいるのかもだ。でも自戒をこめて言えば、いわゆる構造分析とかなまくらだと思うな。すべてがそうとは思わないが、たいていは刀ですらなく、切れ味の鋭いカミソリで大木を倒そうとしているようにしか見えない。あまりこの点で吉本隆明をほめたくないけれど、しぶといおっさんだったと思う。例えば、彼は文学者による反戦声明を批判した。なぜ批判したのか?そこが重要だと思う。(ぼくは詩人としてのほうが好き。というか、吉本のことばを借りて政治権力を批判しようとは思わない。)

 

 まあ、目に見えてわかりやすい政治権力に対する批判にはぼくはやはり興味がない。日常にこそあるよ、権力は。ただ、ぼくにはその日常の権力を含めて、考えてみることが非常に面白くない。面白くないどころか、不快ですらある。なので、それに耐えられるフーコーってすごいなと思いつつ、『テクストから遠く離れて』を読んでいたのだった。(すごく気持ち悪いという意味で大絶賛。)

 それと権力に対して敏感にならざるを得ない時が人間にあるのだと思う。自分の生存が脅かされるとき。これはきっと個々人では平和な日本の今でもあることなのだろう。多くのひとがわかりやすく知覚できるのが戦争なのかもしれない。とすれば、戦争もこれからはできるだけ権力の匂いを消して行われるのだと思う。というか、もうすでにそうなっているの?