忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 政府による感染症対策とオリンピックの開催の是非は論理的に見れば、それぞれ独立事象であるという話をYOUTUBEで見た。この話は少し面白いと思った。ただ、この見解をぼくは間違っていると考える。しかし、そのように見たほうが効率的ということなら、そうなのかもしれない。

 以下、以前に書いたものとかなり重複する部分もあるが、書いてみる。

 オリンピックについて

 大前提として、民間のイベントの開催する/しないはその主催者が判断すればいい。

 民間から協力の要請があれば、政府はできる範囲で協力すればいい。医療分野の協力要請について、現在の医療体制のひっ迫具合から判断されるべきものではないという意見は理解できるが、2か月ちょい先の変異株の流行等を勘案し、感染状況を予想して、提供できる範囲に目安をつけることは可能なのか?あらかじめさかれた医療資源の再配分みたいなことをすればいいのか?この辺は実務レベルで判断されるのだろう。ただ、予測が難しい状況での開催にはぼくは不安がある。個人的な希望をいえば、集団ヒステリー状態の到来みたいなのだけは勘弁してほしい。

 大雑把にいってしまえば、結局は実現可能性、開催できる/できないの話になるのでは?その判断をするにあたって、ぼくの個人的な不安や希望は無視してもらって結構。ただし、あらたな事態なり、情報なりが出てこない限り、ぼくも自分の考えをあらためるつもりなし。

 くわえて、このできる/できないが政局に結び付く可能性が話をややこしくしている。オリンピックに政治が関わってきた点を考慮すれば、当然では?とも。現状もう政局化しているのか。とすれば、選択肢は狭まったのか。ぼくは政治音痴なのでさっぱりわからんのだが、もう中止とはいえないのかもしれない。なんで政局化させちゃうのだろう?ぼく個人としてはオリンピックの成功は政府の業績にはならないし、中止は政府の責任にはならないと考えたいが、現実はそうならないというだけの話か。

 

 感染症対策について

 日本のコロナ禍は新型コロナそのものというよりは医療体制のひっ迫が問題だった、というのがぼくの認識である。(変異株次第でウイルスそのものが脅威になる可能性もでてきたが。)

 民間、公的機関の比率で日本はもとからパンデミックには対応しづらい環境だと理解していた。民間医療のベッドは効率的に利益を上げることが求められるので、空きをつくっておくことが難しい等々。

 で、さらにややこしいのは背景として日本の人口減社会問題があるのでは?昨年、オリンピックが予定通りに行われていれば、粛々と学校や医療機関の統合が進んでいたはず。この点に関してはNHKがコロナ禍以前に扱っていたが、当時、関心がなかったので詳しい内容は忘れた。人口が減る社会の実像の理解としては勉強になった。厚労省が医療体制の拡充・変更に及び腰だったのはその側面があったのでは。

 以上のような医療体制に関する事情とオリンピックにさける医療資源に限りがあるという話はつながっているというのがぼくの認識。独立した事象であるという見方とつながりをみとめる見方はどちらが正しいということはいえないのでは?

 

 政府の感染症対策については検証は確認したいと思う。ただ、そこまでひどいものではなかったという認識。「さざ波」ということばが引用だったにせよ、ことばの選び方に疑問はあるが、高橋さんの感染状況に対する認識はさほどぼくとは変わらないように思う。ただ、その「さざ波」で日本の医療が崩壊する可能性に言及しないのはおかしい。オリンピック開催のネックになるのも医療体制の確保が重要な課題ではなかったのか?

 いずれにせよ、強引にまとめると、ぼくの現状認識はコロナによって日本社会の脆弱性があらわになったという見方に近い。医療体制にせよ、若者の貧窮にせよ。前者については人口減社会における医療機関の統合との兼ね合いの問題がある。後者についてより正確に言えば、女性の雇用環境の問題であり、加えて世代間格差、世代間闘争の側面がある。インド株の動向など予測ができないところもあるが、現在の日本におけるコロナ禍はやはりコロナそのものというよりも日本社会が平素から抱えていた問題の露出に見える。

 

 「さざ波」、「笑笑」発言に対する倫理的な批判について

 彼は物書きなのか?人目をひくためにわざとこういうことば遣いをするひとはいるだろう。そういう意図をまずは取り除いて、文意を読み取るようにぼくはしている。「さざ波」という認識自体はそれほどおかしなものではないように思う。一方で、大阪はその限りではないという指摘はあるみたいだ。

 ただ、感染状況が他国と比較して低く抑えられていても、日本の医療体制はひっ迫している。彼のツイートはそこには触れない。きっと、後半のオリンピック開催につなげるには不要な、邪魔な文脈だからだろう。高橋さんのツイートに対するぼくの認識はそんな感じ。彼の本を買って読もうとはあまり思わないかも。逆張りとか言い切りスタイルに不満というわけではない。

 

 そりゃそうと、なんなのだろう、ツイッターって。うまくこの道具と付き合っているひとをぼくは尊敬するよ。ぼくにはできそうもないから。話は飛ぶが、選手への嫌がらせをリベラルがやっているという話もまゆつばだと思う。まあ、ぼくはそういうリベラル批判をするひとたちと違って、リベラルだの、保守だのいうひとが身近にいない時代に生きた人間だからなのかもしれないが、日本人と限らず、リベラル・保守関係なく、集団性を帯びると暴力性が増すだけではないの?と思っている。集団にならず、個人が個人を嫌うみたいなのはむしろ健康的に見える。だいぶ減ったけどぼくには嫌いなやつとかたくさんいたし、そういう感情を人間が持つことは日常でも当たり前のようにある。ただ、その感情をだれかと共有しようとする、とそこに権力が誕生する。ツイッターは集団化を容易にし、権力化するのがキモイ。繰り返しになるが、個人的つぶやきに徹しているツイートは面白い。そういうツイートをしているひとを探すこつは「いいね」が少ないこと。放言しちゃうと「いいね」が3桁以上いってるのとか、異常なんだ。キモイ現象なんだよ。発言しているひとが「いいね」を期待している場合もあるだろうし、たくさん「いいね」がついているものに「いいね」をして気持ちよくなっている場合もあるだろうが、異常なんだ。