忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

単にぼくが知らなかっただけみたい

 自分が学生の頃、ポストモダンとか流行っていなかったと以前に日記に書いたのだが、どうもそうではなかったらしい。身のまわりでも、読んでいる人はいたみたいだ。ぼくの視野が狭かったといえば、今でもそうだしな…と思わんでもない。『動物化するポストモダン』という本とかが流行っていたと聞いた。

 そのこと自体はどーでもいいのだが、その著者が吉本隆明的立ち位置にいるという話をネットで見かけ気になった。詳しいことはよくわからないけれど、リベラル批判という共通性を指摘してのことなのか?

 ぼくの雑な印象論ではそれは違うと思う。吉本のリベラル批判をどう理解するかによる。その時々の「情況」における発言だったのではないか。たとえば、『「反核」異論』は冷戦下における発言だった。ある陣営に属するある国を批判することは自覚なく、別陣営の利益になる。さらに、自覚的にそれをやっているなら、ふざけるなという話だ。

 冷戦が終わった後でどうだったか。文学者が反戦声明を出したときも、これを批判した。国際社会における日本の立ち位置を彼は意識していたはずだ。

 彼の認識や発言の妥当性はひとまず無視すると、ぼくがおもしろいと感じるのは戦争をやった世代は世界認識が念頭にあることだ。いや、ちょっと、違うか。明治維新以降、先進国を意識せざるをえない世代、もしかしたら、前の東京五輪の記憶のある世代くらいまではある種の劣等感を抱えながら、世界を意識せざるをえなかったのっではないか、という気がする。今の言論人が世界を意識していないといいたいわけじゃない。後進国日本の劣等性みたいな意識はないだろう。そこが違う。

 なので、吉本の場合、漱石とか、芥川とかの読解にその側面はよくあらわれる。後進国知識人の悩み、云々。話が飛んだ。(もっとも彼の文学読解の本領はそこではないと思うが…)

 で、そんな意識は今は希薄なのでは?似たようなことをやっていても、内実は全然違う。

 それと、もうひとつ違うと感じる点はオウム事件における発言とか、9.11における発言、原発に関する発言か。当時のリベラルな人たちは大体無視したか、ボケたとか反応していたような。リベラル批判というよりも自分の読者をばっさりいっている。当世、ツイッターで行われる読者の囲い込みとは逆の行為ではないだろうか。

 遅れてきた吉本ファンのぼくから見るとそれらの発言におかしな感じはないし、ボケたとも見えない。本気で言っていることだけがわかる。

 それと吉本の『転向論』に対する鶴見俊輔の批判を踏まえた結果でもあると思う。やっぱ、いずれの発言も情況におけるそれなのだ。

 結論。吉本的受容をされているのは庵野秀明さんという話をツイッターで以前、見かけたが、そっちのほうが妥当な見方だと思う。こういうタイプの人の出現はある種の環境における偶然に頼らざるえないでは?また、そういう時代がくるかもしれないけれど、ぼくはもうそういうことに関心はもたんだろうな。