忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

日記、メモ、その他

 これといって意識的に五輪を避けているわけではないが、やっぱり見ることはない。開会式は少しだけ見たが、ドラクエの曲が使われていた。ドラクエはプレイしたこともなく、思い入れもない。モンハンの音楽も聴いた。同じ理由で思い入れなし。

 それにしてもなぜ見ないのか?テレビの視聴習慣ないことに加え、時差がないからだろう。風呂上がりにアイスキャンディーをくわえながらハイライトを少し見る程度なら、見ることなるかもだが、このところは風呂上りは猛烈に眠く、すぐ寝てしまうな。きっと最後までこんな感じで、それほど見ることはなさそうだが、以前、義足のランナーの特集を見たことがあるので、それはちょっと見たいかも。が、いつのやるのかは知らない。その特集を見ていておもったのはオリとパラを分けてやる意味が種目によっては…みたいな話。詳しいことはさっぱりわからんけれど、100mだったか、走り幅跳びだったかすでに実力が拮抗しているという話だった気がする。

 それにしても夏の暑さにはまいっている。

 

 新型コロナ感染状況はワクチン効果で高齢者の重症化を抑えられているということ?もうそろそろ医療ひっ迫という事態に行くのだろうか?もしくは、もうすでにそうなりつつあるのか?接種券がまだ来てなかった気がする。まあ、ぼくは自治体での接種をのんびりと待とう。

 テレビ報道はここ1年くらいちゃんと見ていないけれど、当初、医療体制が厳しい状態に置かれていると、たとえば、イタリアのこととかを伝えていたが、あの衝撃みたいなものは今でも記憶に残っている。その後はWHOだったか?不安になるなら報道はあまり見ないほうがいいということで文字情報だけにしてきたが…かならずしも、不安を煽っているというわけでもないのだろうけれど、難しい問題なのだろう。

 この時期の感染増は五輪とは関係なく起きると予想されていた。なので、今はそれほど慌てる状況でもなく、五輪を楽しむ人は楽しんでいるという感じなのだろうか?この点では過去の緊急事態宣言時にも、ぼくはアニメを楽しんでいたしなと思う。

 

 メモ

 さっきツイッターで『小林さんちのメイドラゴン』に関する話題を見た。一連の連投ツイートに100回くらい肯いた。が、ところどころ理解できない部分あり。なので、それに関するメモ。

 

 『小林さんちのメイドラゴン』の制作が京都アニメーションであることの意味

 昨日の日記ですこしだけ『かげきしょうじょ‼』にふれた。作品に対する感想ではないが、登場人物についてすこしだけもやっとしたものを感じた。別にこの作品だけに限った話ではないが、ステロタイプなオタク描写についての問題だ。(昨日例示した3つはぼくの苦手なテンプレキャラだ。)余談ではあるが、ある事件が起きたとき、オタクに対するステロタイプを拡散するような文章を書いた言論人にはがっかりした。(新聞への寄稿だったと思う。)当時、ぼくはアニメを熱心に見る人ではなかったが、この時の記憶は今でも残っている。以来、なにか事件が起きるたび、何かしらそこにある種の偏見から想起されるストーリーを見出すタイプの言説には抵抗感がある。無論、それは検察の作り出すストーリーに対しても。どちらも安直と言えば、あまりにも安直。ただし、その安直さが日常に平穏をもたらしているとも言える。

 んで、昨日、『小林さんちのメイドラゴンS 』の2,3話をまとめて見た。主人公の小林はメイドオタクで、その描写もステロタイプではあるわけだが、なぜメイドオタク化していったかの自己分析があり、その分析を聞いた後、トールの小林にかけるセリフがよかったのだ。正確な引用ではないかもしれないが、「小林さんのそういうずるいところが好きです。」だったかな。

 京都アニメーションはこういう描写をできる。素晴らしいことだなと思うが、そのタフさに敬服し、畏怖する。

 昨日の時点ではステロタイプな描写そのものに問題もあると考えていたけれど、どうちょっと違うかもしれない。無論、ステロタイプが実相とかけ離れた偏見を強化する可能性はあるが、その効果を無化するような描写を『小林さんちのメイドドラゴン』で見たのだ。

 

 ツイートに関してよくわからなかったこと、というか考えてみたいこと

 まあ、わからんことだらけ。

 同性愛→性愛

 同性愛→家族愛

 同性愛からスタートして、異性との性愛、家族愛という道をたどる場合。多くの作品は幼稚園時代から始まるわけではないので、同性愛時代は省かれる。この間見た『おおかみこどもの雨と雪』は主人公花は女から母へという部分の物語だった。

 で、疑問1「母性」とは?

 まあ、ぼくが母という存在に苦手意識があるためかもしれないが、母性から家族愛に目覚めた段階を同性愛的世界として理解したいみたいなところがある。こういう理解が許されるなら、回帰みたいなイメージ?吉本隆明の晩年の著作をもう一度読み直してみよう。フランシス子に関する話以外忘れてしまった。

 そのツイートでも言及されていた。「abjection」については文献にあたってみよう。クリステヴァでいいのだろうか。

  安達の母と島村の母で不気味なのはどちらか?それは島村の母だと思う。そういえば、この点もぼくがこの作品に魅かれる要因であったと思う。安達の母も痛々しい存在ではある。

 

 同性愛からスタートして、同性との性愛、家族愛をたどる場合

 作品としては①同性愛→性愛→家族愛

 ②同性愛→家族愛

 ②のパターンの作品はなぜ性愛の過程をすっ飛ばしているのに、見ているぼくなんかは自然とその状況を理解してしまうのだろう。考えてみると不思議だ。違和感がないのだ。

 

 ※追記

 『小林さんちのメイドラゴンS 』でカンナが白線の上をなぞるように歩くシーンは笑った。大人げないトールが最高ですね。