起きているときに考える寝言の記録
『ひぐらしのなく頃に 卒』について
このシリーズ作品をみるのは初めてだった。描写はけっこうグロい…
一見、普通に生活を送っている人でもなにかきっかけさえあれば、常軌を逸した行動をとってしまうみたいな感覚はわかるような、わからぬような。みんな、こころにヤベー化け物を飼って生きているんだということか。
主人公なのだろうから、そこは制作者の思惑通り注目しているが、北条沙都子はおもしろい。古手梨花に対する執着はもちろん、叔父である北条鉄平との関係も、気になる。
叔父との関係と言えば、『男はつらいよ』もそこだけはおもしろい。というか、ぼくは『男はつらいよ』自体がいろいろと苦手な映画なので。その映画の持つ党派性も苦手だが、そこよりも忌避感が強いのは人情噺に落とし込んいく感じ、実に退屈だ。それでも、満男と寅次郎の関係はおもしろい。
なんだろう。沙都子と鉄平にも重なって見える。沙都子の両親は他のシリーズ見れば出てくるのだろうか。
『リズと青い鳥』について
これは以前に感想から省いた話題。
序盤の描写で希美のあとにくっついて歩くみぞれ、この様子は姉妹に見える。姉の行動をなぞるようにマネする。ぼくは実は弟であり、同時にいとこ間では年上でもあるから、知っているが、ついつい年下のほうはマネをしてしまうが、マネされた年上のほうからすれば、うっとうしい。でも、この映画にはそういう感触はなさげ。そのことについて、また散歩中にでも考えてみたい。
いろいろとわからないことについて
人流と感染拡大
まず、人流と感染拡大は関係あるのか?
あるということなのだろうけれど、ミクロの視点で、感染リスクが高い状況はわかってきているのだろうか。
人流の増加・減少について。
前回の緊急事態宣言時との比較は見た。
昨年の、あるいは、一昨年の夏の同時期との比較とかはないのだろうか?というのは、オリンピックのステイホーム効果とか、それ自体を調べることに意味があるのかは知らないが、なんだか、政治家が思い付きでオリンピックにステイホーム効果があるみたいな話をしているのは気になる。わたし、気になります!!!
若い人の間で感染が広がっているという話について
オリンピックでステイホームをしている人は高齢者なのか?
まず、社会活動があるのだから、高齢者に比べれば、その他の世代に感染が広がるという話なのか?
ワクチン接種によって具体的に減ったのは、医療施設、介護施設における高齢者のクラスター発生が抑えられているということなのか?とすれば、冬にワクチンの効果が落ちてきたら、高齢者に再度の接種が必要になるのか?
若い世代がステイホームしないのはオリンピックに対する関心が低いからなのか?スポーツマーケティングというものがこの世に存在するかは知らないが、もうすこし工夫の余地があるのでは?
今から五輪を中止して感染状況は好転するのか?
すこし頭を整理してみたけれど、ぼくのように五輪を特別視せず、ただの民間の興行と位置付ける人間こそ、五輪を楽しんでいる人が多い?現在の状況をとやかく言う立場にない。
五輪を中断すれば、感染状況が好転すると考える人は五輪を特別視しているのだとは思う。
感覚的にぼくに近い人はおそらく世間的には少数派だろう。
なので、中断のアナウンス効果には期待できるのかもしれない?が、もやっとするな。
気のゆるみみたいな話について
ハンドソープの売り上げとかに変化はあるのだろうか?
マスクの売り上げは減ってそうにない。みんなマスクをしている。
あ、ぼくは最近うがいはけっこうてきとーになっていたかも。
医師会批判、電通批判。
これはもうよくわからん。
こういうのは時期を過ぎれば、なんだか元通りという感じ。ほんと、なんなんだろ?こういう批判があったことを忘れてしまうということは基本的にはどーでもいいことなのではないかという気がする。電通については妙な悪ノリが表面化しない限りは、まあ、無理なのかもしれないけれど大人しくしてくれていれば、気にならない。
この国の仕組みを変えるみたいな一大事業ってことなのだろうか?
電通に関して、同盟通信社解体時にタイムリープして、その存在を消してしまえば、と思ったのだが、これは勘違いで、同盟通信社誕生時に電通の通信部門が吸収されていたはず。なので、それよりも前にタイムリープしないとだめかも。
医療ひっ迫→医師会が悪い、この発想はぼくには理解できない。
ぼくの中では初期の文章のカッコよさから小林秀雄のほうが文学的感受性が豊かということに、これまでなっていたのだけれど、最近、アニメを継続して見ることにより、それは間違っていたかも?と感じている。
たとえば、吉本は小林の宣長論に対してかなり厳しい評価をしていたと思うが、これは吉本が小林のようには文学を読めていない、吉本にはその感性がないと思っていたのだ。実際、その通りなのだとはおもうが、吉本の感性を勝手にぼくは乏しいと判定していた。これが間違い。
結局はあてずっぽうなことしかいえないけど、吉本の眼のほうが射程が長かったのではないだろうか。というのは、最近のアニメを見て、吉本のいっていたことがなんとなくわかるみたいなことが多いのだ。
もう、面倒なので言い切ってしまおう。吉本のほうがきっと文学的感受性が豊かなのだ。で、小林は自分の感受性のなさにはすごく自覚的だった。ところが、その自覚があったことに吉本が気づかなかったので、吉本の小林秀雄理解に影を落とした。
こんな妄想をしながら、帰路についた。
(吉本を理解するためにアニメを補助教材としているわけではない。アニメを理解するために吉本の考えを借りることもめったにない。どっちもただ、理解したいだけ。よくわからんけれど、どちらもぼくにとってはおもしろいので、なにがそんなにおもしろいのかを理解したい。)
書き忘れた。
こわすぎて、『ひぐらしのなく頃に』次回以降、録画もびびっている。
夢に出てきそうな…