忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

『進撃の巨人』について

 『進撃の巨人』最新号でエレンが死んだらしい。ぼくはもう連載のほうは追っていないので詳しいことは分からない。ただ、気になっていることがひとつある。なぜエレンがレべリオ収容区を襲撃したのかについて彼は語ったのか?そのことについては一切語らずに彼は死んだのだろうか?

 エレンについてはレべリオ収容区襲撃から「地ならし」敢行の流れで悪役として見られる傾向が強くなった。当然と言えば当然。ただ、襲撃をなぜ行ったのかについて彼自身が話すことがなかったため、余計にヘイトを集めた側面はあると思う。そこは作者が意図的に秘しているのだろう。もしかしたら、最後まで、「地ならし」を起こした真意を含めて語られないまま終わる可能性もあるのではないか、とぼくは思っている。

 ただ、アニメで見たとき、襲撃の回「宣戦布告」?は面白かった。人間ドラマとして面白かったのである。この作品はひとつの軸として幼馴染3人の物語という側面がある。調査兵団に入ることでその枠組みが104期生へと広がっていった。ところが、その回で明確になったことはエレンと彼らの断絶だった。特に印象的だったのはエレンとミカサの距離感だ。ぼくにも幼馴染がいる。もう何年も会っていない。そして、きっと今再会したら、このふたりと同じような状況に置かれるのではないか、と。いや、昔のように笑顔で話すかもしれない。が、決定的ななにかは既に失われているだろう。

 アニメ視聴時、その襲撃について個人的には唐突な印象は受けなかった。2回目だったからではなく、前日譚の中でそれは示唆されていたからだ。今週の日曜にあった「正論」の馬車のシーンである。104期生が希望を失わずに笑顔でいることのできた最後の時として名シーンに挙げるひともいるかもしれない。そこでエレンの持つ巨人の能力をだれが継承するのかという話になる。この場面がアニメでどう描かれるのかを注目していた。感想はひとまず置いておくとしよう。

 描かれ方としては予想通りではあった。104期生の絆を感じる場面に仕上がっていた。その状況だけに着目すれば、特攻隊長として作戦に臨んだ島尾敏雄とエレンは重なる。エレンはそこで具体的に何と言ったのか。104期生の誰にも継承させるつもりはない、104期生はエレンにとって特別な存在であるから。そんな感じだった。このことばをどう解釈すればいいのだろう?ある意味で同期からの申し出を撥ねつけたこの発言から収容区襲撃、「地ならし」への道のりは不可避な流れだった、とぼくは思っている。継承なしにこの事態を打開するには?そして彼は彼のやり方でそれを実行した。その結果、幼馴染も104期生も特別な存在ではなくなる。「友愛」を代償に彼は事態の打開を図った、友愛を捨てる物語と解釈した。そこで湧く疑問。友愛を捨てた彼が手にしたものは「自由」なのか?もしそうなら彼の中で「自由」は「友愛」を捨てるに値するものなのか?あるいは、ぼくの見方は的外れで、他に真意があるのか?いずれにせよ、なにか、明確な答えが欲しいというほどのものではない。そうしたことに一切に触れずに終わるのもいいのかもしれないとすら思う。

 ところで、彼の行いに正当性があるのかはよくわからない。というか、そのことを考え、エレンを評価してみようとは思わない。関心がないからである。いや、吉本隆明ファンを自認するなら、この問題から逃げてはいけないのだろう。しかし、今のところ親鸞→吉本に引き継がれた「造悪論」については正直に言えば、わからない部分が多い。そのことで吉本は世間から批判を受け、ある程度の数の読者も友人も?失っただろう。そうまでして、なぜ彼はそんなことをいったのか?やはり、よくわからない。脱線してしまった。少しだけ述べておくと、仮に間違った行いであったとしても、エレンを否定はしないというのが「造悪論」なのだろう。不可避に間違えることが人間にはありうる。この人間観はぼくにはかなり説得的ではある。うまく説明とかできないわけだが。吉本が彼の戦争体験をどう考えてきたのか、戦争体験というと誤解を招きそう、戦中のみを指すわけではない。うーん、難しいな。適当にお茶を濁せるような話ではない。(吉本は戦地に行っていないので兵隊としての体験がないというような話は的外れだと思う。銃後の経験から出発する、そういう行き方もあるはずだ。というか、いつ戦争が終わるかも、よくわからない中で、戦争で死ぬ覚悟だったということばに偽りはなかったとぼくは考える。また、戦中のみならず戦後の一時までは戦争の理解のされ方を含めて、戦争体験と見ていいのではないか。でも、もう今となっては加藤典洋の『敗戦後論』に込められた声もむなしく響くだけなのだろうか…放言ではなくカレンダージャーナリズム的な見方しかされなくなっているように思う。例えば、新聞で特集が組まれるとして、あらかじめ党派性で結論が出ているので、読む必要がない。党派性はないが、読む必要がないという点でオウム事件についても同様である。)

 まあ、話題を戻そう。友愛を捨てた人間のドラマはぼくには面白い。それはなぜか?

 ここ数日間の記事に重なるところもあるが、ぼくがどうしてもホモソジャパンを最終的には否定できないことに関係する。友愛の生まれる土壌とはまさにホモソーシャルな環境においてではないのか?例えば、みんなもぼくも「掟の物語」が好きだ。掟が存在するためには基盤として友愛が必要に思う。そして、その友愛に感動するからこそ、ノワールもの『ゴッドファーザー』や『91days』は面白いのだ。ところがエレンはそれを捨てた。すごい人だと思う。(褒めているわけではない。)ぼくがそこにある種の感動を見出したことも事実である。やはり、人間ドラマとして見たら、面白いのだと思う。

 結末も見据えず勝手なことを書いたわけだが、今後の展開次第でこうした解釈自体が否定される可能性もある。それはそれで面白い。それでも、すこしだけわかったことがある。それはなぜぼくが『進撃の巨人』を見る際、神の視点を否定したのか、について。たぶん、人間ドラマを見るのに「読者なる神」が不要だからだ。人間を見るのに神の眼はいらない、人間の眼で十分なはずだ。もし、人間ドラマに神が必要なら、別の形で存在しうるのだろう。この作品は実に多様なテーマをおしくらまんじゅう状態で詰め込んでいるので、様々な読みを可能にする。ただ、ぼくに限って言えば、この作品に出てくる人間をエレンを含め、好きだったのだろう。皮肉にも友愛の視点で。