忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

旬を過ぎたら書こうと思っていたけれど忘れそうなので

 森さんの発言への批判について

 全文を見たが、やっぱりひどい内容だとぼくは思った。

 それでも気なることがあるので書いておこうと思う。

 

 ①森さんの発言に対する批判自体が同じような権力構造に依存していないか?

 ぼくはあまりこの種の議論に関心がないため関連した本を積極的に読むようなことは以前からないこともあり、無知なところもあろうかと思う。その点の自覚があるが、鶴見俊輔は右も左も同じような精神構造だとかつて批判していた記憶。そして、彼は戦中、同型の精神性を知識人だけではなく、古参兵である大衆にも見出していたはずだ。今回の問題に敷衍してみるとホモソーシャルな環境に依存している森さんを頂点とする権力構造に対する批判もホモソーシャルな環境に依存していないのか?その点は気になる。繰り返しの名指しは避けるが、もしそうであるなら、はっきり言えば意味のない批判であるとぼくには思える。かりにその批判が奏功しても批判サイドに第二の森さんが誕生するだけではないのか?村上春樹のことばを借りれば、こう言うこともできるかもしれない。はじめのうちは批判するサイドだった「卵」も無自覚に「壁」になっている可能性がある。

 

 ②権力構造批判自体が権力維持のガソリンになってるのではないか?

 ホモソーシャルな環境を基盤としない批判が成立したとしても、結局、権力維持のガソリンとして活用されていたら皮肉ではないか。そんなふうに思ってしまうのは、この手の批判は性差(男女)問わず不人気に見えるからだ。ぼくのあてにならない印象論といえば、それまでの話。ホモソーシャル万歳なひとも実際はそこまで多くはないのだろうから、迎合が起きたとき、権力に中立的な人たちがどのように機能しているのか、そこの検討は必要かもしれない。

 

 ③ホモソーシャルよ永遠なれ(with ホモソーシャルのほうがよかったかもだ。)

 これは皮肉でも嫌味でもない。ぼくはそれを多少というか、かなり嫌いなほうであるけれど、個人的な趣味の域を出ないと言えば出ないし、そんなぼくでもそういうものが人間が年を重ねていく過程で必要だとも思える。『少年アシベ』とか実際自分も好きだったわけだし。

 なので、権力への迎合も見逃せる場合、見逃せない場合みたいにケースバイケースということになるかも。いじめの現場での迎合は見逃せないよねとか、そんな感じだろうか。あとは、多様性のある社会の実現の妨げになる場合は見逃せないケースとなるだろう。

 これは自分でも未消化の問題、とても答えなんか出そうにないわけだが、書いちゃうと島尾敏雄の戦中体験。見逃せないケースに該当すると思うが、それでもこれは美談なのか?そう受け取るひともいるのだろう。でも、ぼくの生きた実感としては美談ではないと思う。が、醜悪と言い切るほどの勇気もない。まあ、今でも条件が整えば、日本は特攻作戦を可能にする精神性を性差問わず、保っていると思う。そして、その精神性はぼくが問題視する権力構造とも関係がある。

 冒頭、関心ないと言ったわりには余計なことを書いてしまうのはこの問題のせいである。正直に言っちゃえば、この戦中体験を知りたくなかった。いや、知ることができてよかったのかもしれない。でなければ、ぼくのぐうたらな部分がはぐくまれることはなかっただろうから。