忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

傍観者だけれど読んでしまったから 

 オープンレターとそれに関連したあれこれに関する雑感 

 100年後、ツイッターをはじめる人への参考資料的メモという体裁である。ツイッターも、はてなも100年後に残っているのだろうか?

 フェアではないと思うので、はじめにことわっておくとぼくはホモソーシャルなノリが嫌いだ。これはもうどうしようもない。どういうわけか、というほどどういうわけでもないけど、運動部にけっこう長く在籍し、度々、そのようなノリを目にする中で蓄積していったものがあるので、この思いが今後、大きく変わることはないだろう。いわゆるロッカールームの会話というものが嫌い。たとえば、反省会をしていたはずなのに猥談になっている場面に出くわすと、あほくさーとなり、人知れず、ずらかっていた。(死語)猥談をしたければ、反省会後にそういう話が好きな人たちだけ集まってすればいいのに、聴衆の前であえてやるのが一人前の証なのか、突然、はじめるのだ。余談ではあるが、そのせいか、ぼくの髪の毛は伸びるすきを与えられなかったが、夏は涼しくて、これはこれでありだなとも思っていた。まあ、ぼくの個人的な経験はひとまずほっておこう。

 ツイッターをやっていない。この点で、意味不明のことを書いてしまうかもしれないので、そのことも付け加えておく。

 

 なにから書き始めよう。

 

 ツイッターのブロック機能について

 お互いにブロックした状態であるのか?お互いに何が話されているのかをわからない状態で批判しあっているのか?相手に見えない批判であるなら、なぜそのようなことが行われているのか?これらの点は、ツイッター使用感をともなって、はじめてわかるのでは、と今のところは思っている。五年後あたりに始める予定。

 

 雁琳さんによるオープンレター解釈に対する疑問

 雁琳さんによるオープンレター解釈で明かされたのは「風刺文化の否定」と「解釈権の独占」と「固定化された社会観」の三つから構成された公正さは男性中心主義なしには存立できない、というものでいいのだろうか。その公正さと男性中心主義はお互いに「支え合っている」ということばがあてられているが、その「支え合っている」という評言の妥当性をひとまずおくと、これは当然ではないのか?端から男性中心主義への異議である以上、そもそも男性中心主義なるものが存在していないとおかしい。もし、お互いに本当に支え合っているのだとしたら、その状態はまさしく茶番であり、なんでこんな大事になるのかがぼくには解せない。さて、ぼくが誤読しているのだろうか。

 ぼくに当該オープンレターを好意的に読む理由などありはしないが、文中に「解釈権の独占」を読み込めなかった。雁琳さんのいう独占が成立するためにはオープンレター起草者たちがつくった閉ざされた言論空間の中だけの話であって、そんなことが可能であるはずがない。しかし、ツイッターという空間がそのような錯覚を生む構造になっているのか、とは思う。ブロック機能というものがその空間形成を指嗾しているのかもしれない。

 また、雁琳さんは文中の男性を男性一般に読みかえているところがあるように見えた。恣意的な読みになっているのでは?という疑問がある。一方で、オープンレター起草者が「そのような」といった指示語を補っていないので、雁琳さんの読みにだけ問題があるとは言えず、起草者の書き方にも隙あったと言うほうが妥当か。

 

 オープンレターへの疑問

 冒頭でぼくの個人的な経験を書いた。なんであんなどうでもいい部活動体験記をのせたのか?正確な数を知らんが、当時、所属していた運動部ではホモソーシャルなノリが好きな人と嫌いな人はほぼ同数で、多くは中立だったように思う。問題は好きな人のほうが力を持つことが部活動では多い点だが、単純な数の問題に帰すことができないということであろう。そこまではいい。ところが、ぼくは部活動で自身をマイノリティだと思ったことがない。いやいや、君はマイノリティだったんだと言われれば、そうなのかもしれないが、それでも、腑に落ちないのは雁琳さんの指摘通り「程度問題」だからだろう。坊主頭にするくらいの力しかないのだ。わけのわからん反省会からの再逃亡を阻止するだけの力には、ぼくの場合、ならなかったともいえる。ようは、程度問題を無視した議論はあまりにも雑と見られてもしかたないだろう。(反省会にはもっとやべー問題があるとはおもうが、ここではふれない。)

 次の疑問点にいってみよう。なぜ踏み絵を迫るのか?二者択一を迫ることへの違和感である。『ユーフォ』の滝先生にあなたたちはなりたいのか?、なれるのか?彼はその選択を問う文脈に対する洞察を失ってはいない。いかなる状況で、だれが、だれに、なにを問うのか?考え方からすれば、ぼくはオープンレターの人たちに近く、社会観についてもほぼ同じと思うが、このように政治への参加を促されると一気に冷める。滝先生が最近のマイブームなのだ。

 踏み絵を迫られたら、無視します。

 

 ある種のノリの共有も嫌だし、踏み絵を迫られるのも嫌という至極、凡庸なお話でした。ぼくもたぶん、党派というものが心底、苦手なんだろうと思います。であるから、弱いのか。

 

 以下、自分用メモだけどかっこつけてタイトルもつけよう。

 やや後衛どころか外部の位置から

 とりあえず、ぼくはジョークも気軽に言えない社会は嫌だな。愉快な気分でちんたらと生きたい。なので、ホモソーシャルなノリにならないジョークを言えるようにこれからも腕を磨こう。

 ところで、そもそも、ホモソーシャルなノリは合いの手を要す。そこで、同じ土俵にのる必要はないじゃないか。とは思うものの、やはり、そう簡単でもない。

 五輪前のゴタゴタで森さんの発言があった。その時、当初は森さんの発言内容に対し批判的なスタンスをとっていたのに、(森さん個人に対してではなく、発言内容に対して批判していた点は好感が持てる。)、森さんに実際、会ったらいい人だったと言っているのをネットで見かけた。愕然とした。当たり前ではないか。そうでなければ、あそこまで出世しない。現在の日本社会では森さんのような人がいい人であり、だから、出世するのだ。つまり、彼のような人が力を持つように見え、また、現在の日本社会における組織の中にはその種の人に依存しながら、物事が進められている側面があることを忘れてはいけない。(「ように見え」としたのは実際は、よくわからん上に、別の方向に議論が脱線すると思うので、ここでは省略する。)

 そして、このような日本社会は一朝一夕にはいかない。ウィキペディア西郷従道のエピソードの項目にもそんな話はのっている。たぶん、もっと昔からこの種の「笑い」はあり、今に連綿と続く。うずたかく積まれた「笑い」の文化に対峙することになるのだ。(なので、吉本興業を中心とした「お笑い」が世の中を席捲して以降、この種の笑いが主流になったという説をぼくは受け入れない。)

 それと、そういう「笑い」でぼくも笑ってしまうことがあるのだ。町山さんと宇多丸さんの映画『20世紀少年』評とかすごくおもしろかった。非常に失礼なことは百も承知で、おふたりについてはよく知らんのに、ともだちの正体は堤幸彦、あるいは、浦沢直樹というところは思い出し笑いするくらいにおかしい。猥談ではないところが、ぼくにそう思わせたのかもしれないが、それでも、掛け合いがおもしろい。本来であれば、こういう笑いに対抗できるくらいでないとだめのだろうが、まだまだ自分は力不足だ。

 険しい道のりである、とこれ以上、書いていると滅入るので、このへんでおしまいにしよう。

 とりえあず、ぼくはひとりで地道にやろうと思う。たまたま、そばにだれかいて笑ってくれたら、それはうれしいので、微笑み返すかもしれないけど、たぶん、仏頂面のままだな。ひとりでジョークを脳内再生して、思い出し笑いをしているのを見かけたら、見逃してもらえると助かります。