忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ、日記、記録

 さあ、いよいよ。夏本番。

 昨年はやっていた裏技、ポケット付きマスクを買い、そこに保冷剤を入れて暑さを乗り切る作戦は今年は実行していない。というのは、昨年気づいたのだが、片道で溶けてしまって意味がないのだ。それと、濡れてしまって気持ちが悪い。

 

 世相は騒がしい。かといって、ぼくは冷静にそれを眺めているというわけでもないが、なにしろ基本的には日常に追われている。

 ミュージシャンのほうは名前も知っていて、曲も聞いたことがあったが、芸人さんのほうは名前も知らず、見たこともなかった。あらためて思ったが、ぼくは「お笑い」文化に疎い。そんなことをいっても、それ以外にもいろいろと疎いわけだし、この日記の本旨に立ち返り、アニメに関するメモメモ。

 

 『カノジョも彼女』

 3話までみたが、ずっとこんな感じでいくのか?

 なんだろうな。これはエロ目的でつくられたものではないのだろう。

 

 『探偵はもう、死んでいる。』

 『氷菓』的謎解き?

 三角関係要素はあり。

 よくわからないといえば、わからない。主に新しく登場したヒロイン。

 あと、なぜ助手は探偵能力が向上したのか?助手として、どのように過ごしていたのだろう?

 

 『死神坊っちゃんと黒メイド』

 見てる。

 ボケーと見ている。

 なんだか結構楽しい。

 

 『蜘蛛ですが、何か?』

 ようやく最終回を見た。このご時世だけど、不謹慎でおもしろかった。

 なんだろう。ぼくはこの作品を見て、なぜゲラゲラ笑い、たまに真顔になるのか?

 蜘蛛がガチで生き抜く姿はいいなと思える。あと歌がいいのかも?

 最後の締め方も、蜘蛛が自分を客観視した視線があり、そこもぼくの好みにあっている。客観的に己を見て、ぼくはぼく自身を笑わずにいれるだろうか?

 

 さっき、散歩しながら考えたことをメモ。

 成長譚における「成長」について

 これまでは個人の成長として捉えていたが、すこし視野が狭かったと思う。

 ある人とある人の関係性の成長と見てもいいのかもしれない。人と人との関係性を育むとか書くとちょっとひくものがあるな…まあ、いいか。

 安達と島村。侑と燈子。沙弥香と燈子。

 関係性の変化と見てみる。

 個人の成長と見るよりはぼくには受け入れやすい理解ってだけの話。

 たとえば、愛を知り個人が成長するのではなく、関係性が変化して愛になったみたいな。いや、これはなんか違う気がする。まあ、いいや。

 

 もうひとつ考えたこと

 内面があるようには見えない人について

 以前にも書いたように実際の内面の有無が問題ではない。あるようには見えないアニメなどのキャラについての話。

 内面がないではなく、内面が表出しているように見える。で、それがなぜか、ギャグになるってこと?よくわからんと歩きながら思った。

 こころの内面の暗部は秘すものという前提が壊れる→ギャグということ?これが成り立つなら、この手のギャグの賞味期限は背景的な文化によって規定されるはずで、つまり、暗部が文化を背景として影響を受けるはずはずで、後の世から見たら、意味不明となるだろう。ぼくは落語は聞かないが、短歌から笑いを得ることはある。正確な理解から笑いに至ったかは判然とししないが、そこまでずれてもいないだろう。とすれば、笑いに関する人の感覚というものは意外と文化的に長生きなのかもしれない。あれれ。これではぼくの苦手な「お笑い」も意外と長生きすることになるのだろう。まあ、そうなのだろうな。

 

 今、日記を書きながら考えていたこと

 時代のトレンドとかいうつもりはないが、うーん、ちと書くことに躊躇はあるが、なんだか、読むと賢くなる文章みたいなのが多すぎませんか?

 前からそうなのだろうか?エッセイ風文章は今では読まれないみたいな話か。

 目的がはっきりとしない文章、そういうものは知的な価値がないということか?

 目的のない文章はなにも語りえないのか?

 すげーどーでもいいことに思えてきた、風呂入って寝よう。

 

 大事なメモを忘れていた。

 昭和は「途上国」。ツイッターに感謝。

 なぜ、ぼくは昭和に関心があるのだろう。まあ、その話は日記に今度書いてみよう。全然、知らない世界の話だからということになるのだろうか。

 

 『この素晴らしい世界に祝福を!

 いいことばだな。無論、皮肉ではないです。

 カズマさんに会いたくなってきたぜ。