忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

かなりピンボケ

 受験産業の話

 受験産業に構造的な問題があるという話に難癖をつけたわけだが、かなり、ぼくも勘違いしていた。

 批判するのであれば、受験が産業化していく過程、換言すれば、構造化していく過程の検討も必要という考えに変わりない。そこをはっきりさせないと看板だけ変えて同じ構造が残ったりはしないのかという杞憂があるからだ。

 で、勘違いの話。産業化の背景のひとつとして学生運動があると思っていたのだけど、これは間違いだったかも。例えば、四谷大塚伸芽会の歴史はもっと古かったみたいだ。今、確認したのだ。

 とすると、旧制高等学校が大学に改組されていったこととかに関係するのか。ぼくはよく知らん。

 今はウィキなんかで確認できるけど、ひと昔前に四谷大塚に通っていた人にとってはその歴史は常識なのだろうか?

 

 マイメロというか、フェミニストについて

 先日、フェミニストについて少し触れたけど、マイメロの話に関連してというわけではなく、もっと別の文脈だった。フェミニストが日本のアニメに厳しいみたいな話を目にして、そうでもないような?と思ったのだ。そういう批判よりも、日常系に対する誤解のほうがいちアニメファンとしては迷惑だと思っている。そのことはすでに書いたので、繰り返さない。

 オープンレターの件はつぶさに動向を追っているわけでもないので、だいぶ前に知ったとき、政治だなと思った以上のことはないし、そのことはたしかこの日記にも書いてある。また、政治であることに対する違和感はない。ただし、どこか遠い国の話のように見える。どーしようもない距離感がある。

 

 コロナ禍における転向について

 転向が話題になること自体に違和感ありという考えはかわらず。

 ただ、そのとき、転向ではなく発言の妥当性の検討だとどうなのか?については考えていなかった。

 ある時点での発言について、①当時の妥当性、②後になっての妥当性。ふたつあって、難しいとだけ書いてほったらかしていた。②が面倒なのは、どんどんその時点を後ろに動かせるよね…という問題。後世の歴史家判断問題。ぼくには死後の評価というものがよく理解できない。

 キャンセルカルチャーもこれに関連するか。

 しかし、改憲があったら、それをさらに改憲したっていいじゃんとも思う。

 

 ことばによる人格攻撃について

 これはぼくもやっている。

 だって、かちーんときた、その怒りの発火点が、「こんなバカなことをいうやつはどこのどいつだ」って場合があるので。ある発言とその発話者の両方に怒りは向けられ、「どこのどいつ」という他者の人格に向けられた思いはその時々に応じて程度の差はあれど、攻撃性を帯びる。まあ、できだけ怒らないようにしたいけどな。たまーにかちんときちゃうのはどうしようもないような気がする。(多くの場合、どこんどいつは目の前にいるので、それほどどこのどいつでもない。ぼくは鏡の前に立っていたみたいなオチをつけてみいけど、ここで言いたいことは会ったこともないインフルエンサーに無責任さを感じることはあっても、怒りにまでいくことはあまりないという話。まあ、それでもたまにイラっと来る発言を目にすることはある。)