忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

書いてみたら、ズレてしまった寝言の記録

 在野ということばについて

 朝野とは朝廷と在野でしょう。

 在野ということばからジャーナリストを連想した。明治維新の経緯からか。日本でジャーナリズムが誕生した経緯。旧幕臣と権力闘争に負けて下野した維新の志士。

 とすると日本を代表する在野はやっぱ大西郷、勝海舟福澤諭吉なのかみたいな感覚がぼくにはあるかも。(勝海舟榎本武揚とともに時事新報紙上、「瘠我慢の説」で福澤に批判されたので、在野ではなかった。)

 宣長さんも在野か。

 そこらへんにいるぼくのような人というよりも、政府と対立してないと在野とはいえないのだろうか。よくわからん。

 

 つーか、私立の教育機関は在野ではないのか?これもよくわからん。

 朝日、毎日対読売、産経みたいな対立図式は正直、関心ないけど(そんな対立は実際には存在しないと思っている。)、新聞社というものは当世ではあまり在野という感じもないな。だから、悪いってことでもない。社会インフラのひとつという見方で妥当な気がする。

 

 論争について

 傍から見ていると、だれがだれと何をめぐって論争しているのか、よくわからない。

 映画界の(性)暴力とか、女子大がミスコンを廃止したとか、成人年齢を引き下げたから、AVに関する新法ができたとか、最近の事例をみていてもよくわからん。

 

 あ、関係ないことを思い出した。

 なんで表現の自由を守るのに国会議員になる必要があるのだろう?

 国家権力が表現の自由をおかすという事態よりも、世間がそれを行う危険性があるため、現在は国家権力で表現の自由を守る必要があるということか?うーん、よくわからん。

 国家権力による保護を必要とする事態はありえるだろう。ひどい差別が横行した時とか。特定の言語の禁止はそういう差別になると思うけど。

 

 ネットの言論は交通整理役の人がいないとぼくのような人間には何の話をしているのか、さっぱりわからんですね。

 リベラル対保守という対立軸は不毛な気がするけど、そういう話をしていると楽しいというのはあるのだろう。

 でもな。

 リベラルの映画評論家は仲間内の不祥事を批判しない、という文字列を見た。この言明はなにを主張しているのか?リベラルの傾向として、仲間をかばいがちであるという指摘ではないよね。そんなことを意味のある言明と本気で思っている人がいるなんて、あまりにも信じがたいので。仲間内をかばいたがる傾向なんて保守にも、リベラルにもあるだろとしかいいようがない。そんで、そういう傾向が鼻持ちならぬというなら、ぼくもそう思う。が、仲間内をかばうことを全否定もできないというか、なんというか。

 別の対立軸を据えれば、不毛ではない、建設的な議論ができそうなのか?たぶん、そうはならないだろう。フェミニストと弱者男性という軸とかも、なんの話をしているのか、わからない。極力、レトリックのレトリックっぽいところは脱色して読むように、つとめるので、下品な物言いも、それ自体を批判するような真似をしたくないけど、ちょっとおかしいよ。読むほうに一方的に煽情的な物言いの脱色といった負荷を課すようなコミュニケーションのあり様には違和感がある。もっとストレートに言ったら、いいんでないのか。あるいは、文章技術を磨いて、それこそ、三島くらい「読ませる」文章に仕上げてほしいとねがうのは贅沢な要求だろうか?三島の文章を読んだ時のイラつきとはなんか違う。時間を無駄にしたという感覚は共通するが、時間を無駄にしても、ぼくは通常イラつかない。ちなみに、三島の文章のほうがイラつく。三島を比較に出したのはフェアではなかった。彼の文章を、彼の結末と整合して読んで、ぼくが勝手にイラついていると思うからだ。

 じゃあ、だれだろう。よくわからなくなってきた。ともかく、ワクワクする文章で書いてほしい。ネットおける煽情的な文章は興奮なき、イラつきなのか。じゃあ、煽情的ではないのかもだ。イラつく文章ということか。挑発的物言い?

 ぼくがネットがヘタクソなだけか。

 世の中のことは知らんが、ぼくなんかが皮肉屋っぽくなりがちなのは諦観があるな。厭世はないかも。おなかがすいたら、ごはんを食べる程度にはこの世への執着があるのだから。

 こういうこと書きたかったわけではなかった。

 

 あと、やっぱぼくのような「じぇいりべらる」がすごく嫌われていることはわかるんだけど、今更、好かれようとは思えないし、だんだんどーでもよくなってくる。これからも嫌われていこうとおもいました。本当にどーでもいいことではあるが、ひとさまに好かれるのはけっこう苦手だ。まあ、あまりそういう経験もないので、運がよかったのかもだな。この傾向が続くことを祈る。

 こういうことも書きたくなかった。

 

 『Vampire in the Garden』について

 この作品もコロナ禍の影響があったと思う。日常生活の制限。

 うーん。屋外をだまってひとりで散歩するときはマスクしないが、屋内でしゃべるときはぼくはマスクをするけど…あと、ヒゲそるのめんどーなときも。というか、こういうことも書かないほうがいいのかもだな。各自が判断すればいいのだろう。一部の「私はマスクをしません」は個人の主張であるのか、あるいは、別の空気の醸成を意図しているのか?結果的に、別の空気の支配になりそうだけど、それでもいいのかも。というか、ひとさまがマスクしている/していないが気ならないようにするにはどーしたらよいんだろね?と思う。日本の社会はみんながみんな、ひとさまのことを気にしないというようにはできてないよね。そこを壊していいのか、どうかも、よくわからんよ。ただ、簡単には壊れないでしょうから、こういうのを取り越し苦労というのだろう。

 ただ、まあ、なんでぼくは自分がしゃべるときはマスクをすることにしているのか?正直、謎だ。今のところは外せない気がする。というか、いつまでこれを続けるのかは自分のこととして、自分を観察対象にしよう。ぼくも結局、空気に従っているだけかもしれない。

 あと、ぼくには新型コロナがふつうの風邪になったという判断がつかない。もう、すでにそうなんだという意見もあるのでしょう。そー簡単に白黒つくよーなものなのだろうか…わからん。

 

 春アニメについて

 見る時間ない。