忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

春アニメのメモ、ネットで見かけた話題など 雑記

 このところ、ごはんを食べて、風呂に入ると猛烈に眠くなり、日記を書くのを忘れた。といっても、とくに毎日、書くことを日課にしているわけでもないので、テキトーでいいかと思っている。

 風が強い。なので、体感気温はそこまで暑くもない。つーか、日本の夏はこんなもんじゃないよね。

 

 春アニメ

 最終回を迎えた作品はどれもおもしろかった。

 

 『阿波連さんははかれない』12話はちょっと感動した。ライドウくんは阿波連さんを好きだったんだな。でも、ぼくがそこに気づかなかったのは、若干、言い訳まじりではあるが、仕方なかったと思う。だいたい、ひとさまのことなんかはっきりとわかるなんてことのほうがまれだから。犬もおなかが空いたのはわかるけど、遊びたいのか、昼寝したいのか、そこらへんはよくわからなくて、いつも手探りだった。

 だれかの気持ちをはっきりと理解はできないけど、どうにかなっている、そこそこうまくいっている奇跡に驚く。

 

 そういうのとはちょっと違う、だれかのことがわからないというお話。今だとゼレンスキーさんとか、プーチンさんとか。プーチンについてはサイコパスとか、異常とかよく目にする。ぼくはそうは思わない。でも、わからないといえば、わからない。まあ、なんだ。人間のスケールが違うんだろ。世界観(世界の見方)が違うということでもあるだろう。理解できないものはできないとしか言いようがない。それを異常とは、ぼくは言わない。

 『見える子ちゃん』はそういうお話だった。メインのキャラ、3人は異なる世界観に生きる。が、この作品はなぜかそれでもうまくいっていた。不思議だけど、そういうことも日常では普通に起きている。

 

 『処刑少女の生きる道』黒幕が師匠と今のところは考えている。ただ、師匠は弟子殺しを何十回も繰り返して、なにをなそうとしているのか?そこはわからん。

 あと、最終回まで明らかにならなかったこと。OPの教室の場面で、メノウとアカリの制服姿が出てくる。たぶん、メノウも転生者なんだよね。よくわからんけど、漂白?されて、純粋概念も消えたのだろうか?メノウも無意識にアカリとともに元の世界に帰りたいと思っている?一方、アカリは元の世界への帰還に執着がなさそう。見直さないとわからんかもだ。そのうち見直そう。

 

 『まちカドまぞく』はまだ11話で、最終回は来週か。この11話でシャミ子にもだれかに嫉妬する気持ちがあるのを知って、うれしかった。嫉妬ともちょっと違うか。あと、千代田桃は地味な人として見られているのか。目立たない感じ。でも、そこは妙に納得できる。ミカンは目立つので、ふたりは対照的なのだろう。

 全然関係ないけど、ぼくも一年のうち半分以上はカーディガンを着て、登校していた。目立たない人間はよくカーディガンを着ているのかもだな。

 

 『エスタブライフグレイトエスケープ』本作はゲーム、映画のために世界観(その世界の設定)がメインということだったのかしら。ディストピアものというのはわかる。行き過ぎた多様性が臨界に達し、おかしなことになるというのはある程度、現代社会を踏まえて、現代社会批判にもなっているのだろう。

 ちょっと整理してみないとわからん。クラスタの数がたくさんあるというのが多様性ということか?で、そのクラスタ内には多様性はない。ツイッターのなんたら界隈みたいなものか。ぼくはそういうのに所属していないからわからんな。素朴な疑問として、そういうなんたら界隈に所属していない人もたくさんいるように見える。要は、別のクラスタに移動する、本作でいえば、他のクラスタに逃亡するというのがなにを意味するのか。批判ではないけど、別のクラスタへの移動は解決にはならないような。そういう生き方から降りたほうがいいような気がしてくる。まあ、ぼくがこの作品を理解できていないということだろう。

 

 『魔法使い黎明期』この作品は13番の死の真相を明かしたほうがセブくんとゼロの会話の意味に深みが出たと思う。(ぼくは前作を見ていないので、ネットで検索しちゃいました。)まあ、でも、そうするとメインキャラが後景にかすむのか。よくわからん。おもしろかった。13番みたいなキャラが作品に奥行きをつくるということは考えてみるといろいろとややこしいと思う。まあ、めんどーになってきたので、お茶を濁そう。

 

 『パリピ孔明』「いいね」文化批判の文脈か。こういうのは理解できる。でも、流行るものには流行るだけの理由はあるんだろーしみたいな。まあ、ぼくにはその感知能力がない。なので、わからん。でも、歌をうたうのが楽しいのはわかる。最近は鼻歌をうたっている。音痴でも鼻歌だとあまり気にならない?下手でも楽しい。

 

 シルバー民主主義について

 なんかちょっと話題になっていたみたい。ぼくはこの問題設定はズレていると思うけど、その主張にある「若者の声が届きにくい社会」という含みは無視できないとも思う。

 それを選挙の仕組みをいじることで達成するのか?

 その前に若者はどんな声を届けたいのか?そこはもうぼくはおっさんになってしまったしな。と逃げるのはずるいか。ぼくは正直、あまり不満とかなかった。あっという間におっさん化して、というのは時の流れがはやすぎて、不満をくすぶらせているうちにおっさん化しただけか。ただ、若者視点の問題提起といっても、やっぱ難しいだろう。それ以前に、若者内にも格差があるから。

 でも、分断をどんどん深めようというのもあれれ?と思う。高齢者も若者も、それぞれに格差があるのだから、それぞれの内に共通利益を見つけて、妥協できるところを探す?

 

 今回、この問題を提起した人の言説をこれまで丁寧に追ってきたわけではないのでなにも知らない。が、その若者の主張が気候変動対策とかなら、ひとまずはそこは優先度は高くないと思う。

 

 あ、さっきの話にかぶる。世界観の違う人の話はなかなか理解できないってやつ。空間と時間の側面があって、気候変動なら空間を広げるとその主張は暢気に映る。発展途上国はまず豊かになるのが優先されるでしょう。

 同時代性と歴史性と置き換え可能か。

 現実の政治は同時代性にひっぱられがちなので、それだけじゃダメよということなら、そうかも。シルバー民主主義にその含みがあるのか、どうか?よくわからん。

 

 まあ、格差問題のほうが優先されるべきという指摘はあると思うので、ぼくが繰り返す必要もないだろう。やっぱ、最近の流行りのことばを使えば、なにが持続可能で、なにが持続不可能か、そこを議論するのがいいと思うけど…参院選ともなるとそういう湿気た話はされませんな。

 シルバー民主主義とかいって、分断している時間的余裕はない気がする。そうはいっても、成り行きまかせになっても、いいのかも。イライラしたり、カチーンときたりしないように個人的には気をつけよう。

 

 モブについて

 吉本隆明を懐かしむ気持ちはぼくにもあるんだけど、かれが時代の寵児になったことの意味を思うと悲しくもなる。たしか、かれは日本の知識人は肝心な場面でごまかすところがダメと言っていた。なので、世をなにかが騒がせるたびに言及していたのだろう。冷戦下の『反核異論』、イラク戦争、オウム、9.11、3.11等々。そういえば、ぼくは三浦和義さんとか知らなかった。千石イエスについてもかれは語っていた。なんか日本はずっとなにも変わっていない気がしてきた…(千石剛義についても吉本の本で知った。戦後史のある部分は吉本の本からぼくは学んだと思う。)

 吉本が大学を卒業して、就職して、学生運動に参加せず、会社を辞めることなく、世間に名を知られることもなく、モブとして、ひっそりと生きた世界線を思うと悲しくもなる、というのは余計なお世話か。

 言論人であることに忠実過ぎたのも悲しい、というのも余計なお世話か。

 別に今の言論人に不満があるわけではない。なにしろ、論壇誌とかまったく読んでいないので、何も知らんのです。

 まあ、ぼくが吉本ファンなだけだな。

 

 『噂の真相』は読んだことがない。

 

 関係ないことが頭に浮かんだ。

 シルバー民主主義を提起した人はリベラル?もしかして、リベラルは高齢者がえらそーにしているという話なのか?でも、えらそーにしている人というのはリベラルにも、保守にもいそうだから、違うか。

 えらそーにしている人とえらい人の違いが、ぼくにはわからんな。

 

 『風姿花伝』と『万葉の秀歌』を読んでいる。『風姿花伝』は何回か読まないとわからんかも。

 『万葉の秀歌』は折口の口訳のほうと並べながら、読んでいる。ところどころわからなくて、困っている。が、気にせず読み進めている。

 おっさん化して読み方が変わったと思うのは、理解できなくてもいいやとなったところかも。わからないものは仕方ないと、前はならなかった。われながらバカだったと思う。そんなこといったって、わかるようになるけでもなし。