忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日の補足

 蒸し蒸しする。

 

 補足というか、書き忘れた。

 弱者男性側の主張を勝手にぼくのことばに置き換えてしまうと、「フェミニストとしての活動以外に別のなにかを見つけたら、そこにも人生の楽しみがあるはずで、だいたい9割の人はそうなる」となる。そして、「その別のなにか」が性愛である必然性はない。

 最近、『ちはやふる』を熱心に見ているせいもあるかもだが、それこそ、かるただっていいではないか。野原に一緒に寝そべって、空を眺めるだっていい。

 が、ぼくはそこに文学は宿らないと思う。そこには文学的な課題などないのだ。

 

 あるひとつの思い込みがある。社会のありとあらゆる課題を政治的に、技術的に解決した完全な世界が実現しても、文学は消えない。真円のような完璧な世界の中で、物質的にも、精神的にも満たされた生活を送っているのに、ある日、突然、「なにかがおかしい」とはた迷惑な、暗い、中二病的つぶやきをする人が必ずでてくるはずで、そんな人にこそ文学はふさわしい。そうであってほしい。

 つまり、弱者男性側の主張がいくら正しくても、1割の人にこそ文学が宿る可能性があり、その1割の人のほうにぼくの関心は向かう。そういう人の書く文章であったら、読みたい。

 で、たぶん、弱者男性側でも同様なことが言えるのでは。そんなことでは自分は満足しないという人の中にこそ、おもしろい人がいるのだと思うが、あいにく、ぼくには、あまり時間がないので、どちらのサイドも、そこまで詳しく調査ができないのだ。

 1割はマイノリティであるから、関心が向くわけではありませんよ。

 

 ちなみに、ぼくの高校時の大雑把な調査では文学好きと言えるような人は学年に10人もいなかったように思う。1割もいない。小説を読む人はもっといただろうけれど、別に文学好きでなくとも、小説は読むだろう。まあ、文学の素人による大雑把な観測なので、あまりあてにならんかも。

 

 話は飛んでしまうが、「なろう系」の異世界転生ものの一部はそのような話である。自分にとってある種の理想の世界であり、人生のやり直しとして、小綺麗に生きればいいものをなぜか泥臭く生きる。とても、おもしろい。