忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

「日常系」というジャンル

 書きながら頭を整理してみよう。

 世界の配信サイトで日本の「日常系」アニメが流行っているらしい。そのことはちょっとうれしかった。世界の人が見ているのは「エヴァ」ではなく、「日常系」で、競争社会につかれた人が見ているということらしい。単純にそうなのかと納得した。

 ただ、疑問はひとつ。競争に疲れた人が日本の「日常系」アニメを見ているとはおもしろい。と同時に、癒されはしないだろうなとも思った。そこで挙げられていたのが、『ゆるキャン△』と『スーパーカブ』だったせいもあるかもしれない。しんみりできるとは思う。で、しんみりが癒しというのならそうなのかも。

 はじめに断っておくとぼくは「日常系」ということばで作品を分類する手法を有効とは思う。が、そこに便利という以上の意味合いはない。つまり、「日常系」というラベルは作品について雄弁に語りえない。ぼくの見た限りにおいて、「日常系」ということばから喚起されるイメージ、優しい世界が作品の本質だったものは非常に少ないのだ。仔細に見れば、作品世界は優しいのかもしれないが、登場人物はどこかしら暗い。そして、その世界ではなく、その登場人物たちを好きで、ぼくらは見ているのだ。当たり前な話かもしれないが、主役は世界ではなく、人間なのだ。それに変だよ。アニメの世界が優しい世界なら、ぼくらの住む世界だって同じだ。自分たちだけが厳しい世界に住んでいるみたいな見方のほうが思い込みではないだろうか。

 例えば、上記の作品なら、志摩リン、小熊はどこからどうみても明るくはないし、暗い。その暗さは陰気なオタクを連想させるものではないし、商業的な目的から陰気なオタク趣味に寄せて、そうなったわけでもあるまい。負のイメージとしての暗さでもない。無理やりことばにするなら、だれでも、当たり前のようにもっている孤独の影だ。そもそも、陰キャ陽キャという分類自体もあまりおもしろくない与太話以上の意味合いはないように思う。なお、孤独の影を辛気臭く語るアニメもあってもよさそうなもんだが、「日常系」と呼ばれるものにはないように思う。たぶん、おもしろくないからだろう。辛気臭く語る表現方法とは別の道が切り開かれたのだろう。その始祖は『坊っちゃん』のような気もするが、違うかも。まあ、わからん。

 書き出しが反論めいたものになってしまったのはちゃんと理由がある。ぼくも実はここ数年、アニメを継続して視聴するまで誤解していたのだ。「日常系」なんてゆるふわの優しい世界を見て、現実生活の疲れを癒しているのだろう、と。ところが、全然違ったのである。「美少女動物園」なんてラベルも的外れだ。そういうことばを使う人はたぶん、作品を見ていない。

 今、自分の日記に検索をかけて気づいてしまったのだが、アニメの感想を主に書いているのに、ぼくは過去に一度も「日常系」ということばを使っていなかった。自分でも、驚いた。でも、当然だったかもしれない。「日常系」ということばを使って語るべきものがぼくにはなかったのだろう。しかし、なんだ、実際、感想の7割は「日常系」アニメについてだと思うが…

 

 日本文化における「日常系」の流れ。近代文学以前にあるだろうと思う。『竹取物語』とか。全然、優しい世界ではない。

 うむ、こういう研究、すでにありそうだな。日本文化における「日常系」の系譜みたいな話。

 まあ、いいや。

 とりあえず「日常系」の特徴

 ①偉人が主人公ではない。

 ②日常の生活を描く。

 面倒だし、あまり知らんので、いろいろとすっ飛ばして近代までワープすると、日本人だとやっぱ漱石作品が代表になるのだろうか。

 小説以外の分野だと、例えば、映画。

 古い松竹映画も「日常系」か。小津作品とか。『男はつらいよ』も。

 ただ、やっぱり今のアニメ作品は『東京暮色』、『東京物語』、『秋刀魚の味』、『お早う』になるのかといえば、あきらかに違うわけだし、ぼくにはこの手の話は無理だな。近代以降に限定しても、俯瞰して見れない。ただ、ひとついえることは『ゆるキャン△』、『スーパーカブ』における共通性は考慮の余地あり。『メイドラ』とか、この他にもぼくの大好きな作品の名も加えてもいいかもしれないが、まあ、止めておこう。

 漫画だと『うる星やつら』とか『ドクタースランプ』とか?

 高橋源一郎さんの『ペンギン村に陽は落ちて』は「日常系」小説だったのか!でも、この作品も、まじめな話、暗いところが悲しみを誘い、そこがおもしろい。

 ぼくがジャンプを読んでいた時、「日常系」はないかも。『銀魂』、『ブリーチ』は違うと思う。

 すこし、わかってきたかも。

 視聴者に「優しい世界」に見えているのだとしたら、疎外された後の光景を見ているからに過ぎないのではないか。で、どんなにテキトーに見ていたとしても、そのことを多くの視聴者は十分に理解したうえで、見ている。だから、しんみりとするのだ。

 疎外される過程を描いたものもたくさんあるだろう。それはとてもわかりやすいドラマに仕上がるはずで、その系譜の名作もたくさんありそう。

 昨今、「日常系」に分類されるものは疎外後の光景を描いているのだと思う。

 

 それと日本アニメのもつ柔らかさ、優しさは宮沢賢治の世界に近そうだけど、そう感じるのは多分にぼくが吉本の影響下にあるからかもしれず。なんだか、今のアニメの感想を吉本に聞いてみたかった。全く面識などないのだが…

 

 今期、はじめて見た『ひぐらしのなく頃に卒』は「日常系」?「日常系」かもしれないが、「日常をぶっ壊す系」というほうが正確かもしれない。なので、「日常系」ではないな。

 

 まあ、なんでことを書きだしたのかといえば、ぼくは文学の素人として、20年くらいそういうものを楽しみのひとつとして、いわば、娯楽として接してきたけど、文学に出会う人って世の中にそう多くはないだろうなと漠然と考えていた。選ばれた人だけがわかるということではなく、気づいたらそっち方面にふらふらと迷い込んでしまったという感じ。(迷い込んだ以上は出口はみんな自分で見つけてね?というのが文学なのだろう。)で、日本の現代のアニメを楽しんでいる人はだいたいそういう傾向の人たちなのではないか?それは世界中の人もそうだろう、と。さらに言えば、「日常系」を楽しんでいるというなら、その作品の核にある暗さ、悲しみを十分に理解した上で楽しんでいるんだろうな、とも思う。そういう人が意外と多いことには驚いているが。イメージ的にいえば、クラスで文学が好きなのは2,3人という感じ。もうちょい多いか。4,5人くらいかも。

 

 それとこれは書いておいたほうがいいかも。日本アニメの最先端か、どうかは知らないが、「日常系」に並んで「なろう系」は重要だと思う。この「なろう系」ということばも便利なくくりという以上の意味合いはないように思うが…

 で、さらに言えば、アニメという分野に限定するのではなく、原作であるラノベや漫画という分野に及ぶすそ野の広さを俯瞰する必要もある。で、これまた、ぼくの手に負える話ではない。漫画とひとくちにいっても少年誌だけではない。少女漫画は重要だ。ラノベも最近読み始めて知ったのだが、すごい量にびびっている。

 

 どんどん余計な話をしていこう。まず、現代社会に生きる人々の願望の投影としてアニメを理解する方法についてはかなりあやしいと思う。方法論としては、どうなのだろう。まあ、お話としては楽しいかも。すでに述べたように膨大な作品群があり、それを分類して理解し、ヒット作の秘訣を探るみたいな見方は成立するのか?ぼくは直観的にそれはあやしいと思っている。雑な分類になって、的を外すと。まあ、世間話として楽しいとは思うので、ぼくも「セカイ系」ということばとか、「なろう系」ということばは使っている。競争社会だからアニメの優しい世界にひたっている人がいるみたいなお話は世間話としておもしろいくらいの意味しかない、と個人的に思う。

 そもそも論として、現代日本サブカルを俯瞰してサブカル論をたてることにはあまり意味があるようにも思えないので、結局、みんなそれぞれ、思いもおもいに楽しんで、感想を言っているの幸せでいいのだと思う。

 

 さらに関係ない話をすると真偽は不明だが、一部の日本アニメに対する規制が外国ではあるらしい。ふーん、と思った。ぼくの誤解であって欲しいものだが、その外国の政治家や官僚はある意味、かなり正確に見たり、読めたりしているということの結果だろう。例えば、『メイドラ』という作品にはそのくらいの力があると思う。それにしたって、規制なんてちゃんちゃらおかしい。

 

 思いついた順に走り書きしているのでたぶん読みにくいし、意味不明の文章になっている。明日、自分で読んで解読できるか、あやしい。

 

 散歩がてらに先日、近所の本屋を見て回ったが、『あだしま』10巻がなかった。大きいところに行けばよかったと途中で気づく。まあ、でも明日入荷と連絡あり。読むのが楽しみ。ラノベは紙のほうがいい気がする。挿絵があるから。そこはやっぱ紙の質感で楽しみたい。文字だけなら、必ずしも紙へのこだわりはないかもだ。

 

 ※例外として

 暗くもないし、優しい世界の「日常系」

 『けいおん!』、『ご注文はうさぎですか』、とかはそういう作品に該当するかもしれない。この2作品もおもしろい。

 『のんのんびより』はすこし違うと思う。