忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

先日の日記に関連して 国語 現地語 普遍語

 普遍語を現地語に置き換える過程で生まれたのが国語。こういう理解でいいのだろうか。

 『想像の共同体』はどんな内容だったか、もう忘れた。『近代日本文学の起源』は大雑把な趣旨とは別にところどころ覚えているかも。「風景の発見」とか。

 日本の近代知識人の生みの苦しみ。そういうものがあったというのはそうだろう。でも、どちらかといえば、その後のほうが興味深い。自分が柳田・吉本路線だからか。とはいえ、近代知識人の孤独、欧米への劣等感というのも、また、最近になって大問題だったのかも、と思い直した程度。

 それは主に日本のメディア問題を含めた社会状況として顕在化している。コロナ禍、ウクライナ侵攻。

 

 国語の誕生と近代的認識の誕生どちらに重きを置くか。

 後者とすれば、つくづく、小林秀雄はやっぱり偉かったということになると思う。宣長に近代的方法の萌芽を見出すとすれば。「もののあはれを知る」とはセンチメンタルな感情に溺れることではない、と小林がしつこく言っていた(気がする)。それは宣長さんから近代は始まっていたんだってことではないのか。

 吉本ファンだからわくひとつの疑問。吉本は賀茂真淵に比して宣長には厳しかった。たぶん、もう本は手元にない。吉本のほうがこの種の感性は小林秀雄よりも鋭い気がする。あれか、ぼくの勘違いで、吉本は宣長の近代趣味を嫌っていたのだろうか。

 もしくは、宣長に近代を見るぼくの見方がおかしいのか。

 

 話が錯綜したが、いわゆる「近代日本文学」では漏れるものも多すぎるのかも、と。『近代日本文学の起源』で示された国語観よりももっと広く国語というものを見てみたい。とくに、自分は主に日本を含めた近代文学に親しんできたので、最近になって日本の古典を読むようになると感じることがあった。ぼくのような人間にでさえ古い日本語の語感にさわれた気にがして、楽しい。正確に意はつかめていなくても、短歌を読むとおもしろいのだ。(「詠む」ではなく「読む」)

 

 この本の指摘で一番、気になったのは英語格差と国語格差のところかも。

 経済格差だけではないような。国語の習熟度でどれくらい人生の味わいが変わるか。若干、上記の内容にかぶる。古典のある人生とない人生みたいなものか。

 

 しかし、それにしても、ぼくはナショナリストにはならんな。戦後民主主義の呪縛ということはないだろう。よくわからん。