ひねくれ者の罵倒芸
『ちはやふる』2期まで、ようやく2周した。おもしろかった。
この作品も主要な登場人物はまっすぐに生きている。なので、ぼくのようなひねくれ者はそこを素直に褒めてはいけないような気がしてくる。それでは、罵倒芸でもって、罵倒している体裁で褒めればいいのでは?と考えてみたが、そこまで器用なこともできやしない。
ところで、罵倒芸とはなにか?正真正銘の罵倒はあまりおもしろくない。そんな気がする。根底に愛のない罵倒は見るに堪えないと言いたいわけではない。
とりあえず、今日のところはその問題はほっておこう。
若宮詩暢はおもしろい。彼女だけはひねくれている。なんとも変な話ではあるが、ぼくはそういう人を見ていると安心する。ストレートな物言いができない彼女のような存在なくして、ひねくれ者がこの作品を見るのに耐えられただろうか。
ときたまこういう疑問が頭をかすめる。この世界のどこかで、『ちはやふる』で言ったら、綾瀬千早のようにまっすぐに生き続ける人間が存在しているのか?(反語)と。実にバカげた疑問とは思うが、このアニメを見て、どこかにそんな人がいてもいいのでは、いや、いてほしいと思うようになった。
なぜか?
まっすぐな人がいるなら、自分のようにひねくれ散らかした者もいていいのでは?と…あまりにも自分本位。むりやり理屈をつけるなら、世界の均衡はそうやって保たれているとか。
しかし、綾瀬千早はまっすぐではあるが、そんな人にも影が、陰影がさしている。
あと、大江奏はこの物語を恋愛ものと規定したら、その観察者であるとわかった。1周目では短歌の先生として見ていた。この手法はなんなのだろう。読者目線を作品内になぜ置くのか。恋愛あんぽんたんたちは論外として、太一よりも正確に、というか敏感に人間関係を把握しているのは大江奏だろう。菫は…なんだろ、わからん。
なんの話をしていたか、忘れかけてきたので寝よう。
と思ったが、春アニメのメモ
千代田桃のどこがヤベーのか今週の放送でわかった。メンタルの脆弱性。もろいのだ。違うか。
※真っすぐ/ひねくれている
かるたに対する態度
人間に対する態度