論争について
書こうと思っていた話とは別の前置きから。
というか、先日の続き。コムデギャルソン論争について。ぼくは実はリアルタイムでは知らない。この論争後に吉本を知ることになる。その論争の内容自体は今日は触れない。
『フランシス子へ』という本の中で吉本が武田泰淳について語る場面があるのだが、埴谷雄高は出てこなかった。読んだ当時はちょっとそのことが気になった。ついでにすこしくらい触れてもよかったではないか、と。でも、今になって思うと吉本が好きなのは武田泰淳なんだろうから、仕方ないってところだろうか。
それとは別に気になったこと。江藤淳や島尾敏雄についてもなにか話してないか、と読み進めるとやっぱりなにもない。ぼくは島尾敏雄については吉本を経由して知ったのだった。
また、彼はリベラルな人よりも江藤淳に親近感をもっていたというのはその通りだとおもうが、このふたりの違いは「閉ざされた言語空間」的問題意識の有無にあると思う。江藤淳にとって大問題であったものが、なぜ吉本にはそう映らなかったのか。吉本にはその問題意識が欠けていたということではないだろう。かりに占領期に日本の言論が歪められていたとしても、それの何が問題なのか?そんな感じだったのではないか。
小林秀雄と論争。正宗白鳥との論争はおもしろい。おもしろいというかひとつの事件だ。思想上の!まあ、すこしおおげさか。
ともかく、小林のその後に影響する論争だったのだろうか?彼のたどり着いた先は宣長さんだった。ぼくは結局、まだ山本七平を読んでいない。『現人神の創造者たち』だけはもっている。いつの日か、読むだろう。
前置き終わり。
ツイッターは意外と論争は起きないのだな。
自称リベラルを「じぇいりべらる」と呼んでいるのを見かけた。
なんてことはない。まさにぼくのことじゃないか。っておもったけれど、まあ、論争する気にはぼくもならない。なので論争が起きないのだろう。
それであっているのかはよくわからんが、自称リベラルの人たちはリベラルがなんたるかをわかっていないため、自縄自縛的な訴え、「今すぐロックダウンを!」とやっているという話か。
うむ。たしかにそうかもしれない。でも、それっておかしなことだろうか?
『進撃の巨人』のエレンを思い出す。
エレンの求めた自由には代償が必要だった。その代償とはまあ、さまざまな読みが可能とは思うが、友愛だったとぼくは見ている。
そこで失ったものを彼が後悔したのかはよくわからん。
でも、当世、「じぇいりべらる」の人たちは現状を見て、自由を求めることの代償に気づいただけではないのか。
ここで注意が必要な点はエレンは英雄ではないことだろう。どこまでも自由を求めた彼は英雄ではない。というか、そう見てはいけない。じゃあ、なんなのだろう?いかれたさいこぱすでもない。ただの平均的なクズ?よくいるタイプではない大馬鹿野郎?
それと原理主義的な自由の追求こそ、非転向をつらぬいた戦前の共産党員と型としては相似しているのではないか。エレンと同様に彼らを英雄視するのもおかしな話だ。日本における政治的言説のはらむ空虚とも関係あると思う。右も左も関係なく空虚。「安心安全」もそうだった。で、その空虚は問題であるのか?空虚でも行政に滞りがないのであれば、問題ないわけで。
話が飛んだ。ようは空虚なことばのぶつかりあいとして「ロックダウンをせよ」と「安心安全」がある。そして、それが空虚であることを日本人はよーくわかっている。
なので、これのどこが問題なのか?
「じぇいりべらる」批判は空虚ではないのか?
よくわからん。
今日の結論。「じぇいりべらる」批判とか、論争の火種として、まったくおもしろくない。たぶん、エレンの自由論のほうがおもしろい。
追記
「戦後民主主義」に対する過大評価
憧れが強すぎるのではないか。といってもぼくの世代では感覚的にわからないことが多すぎる。
「語り口」問題としているのなら、それは人間関係の問題なのか。
それならなおさらに、意味不明。そういうものを捨象してみないとただの泥仕合になりそう。それをお望みというなら一向に構わないが、泥仕合ならそれらしく振舞うべきだろう。「賢さ」なんてこれっぽちも関係ない。お互いに罵倒合戦をやるしかないんでねーの?でも、傍から見てるとおもしろくない。ネットではそういうのが楽しむみたいな文化もあるんだろうけれど、よくわからんな。