忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

『進撃の巨人』についてもう少し考えてみた

 昨日の日記の補足的なもの。

 

 ノワールものについてところ

 特に『91days』との関連において

 『91days』も思えば幼馴染の物語であり、友愛を捨てる物語でもあった。主人公アヴィリオ・ブルーノは幼馴染コルテオを自らの手で殺す。この作品ではその行いが避けられない必然であるかのように上手に見せていた。そして、この行いが結末を決定づけたとぼくは見ていた記憶。なお結末には触れない。

 すこし話がそれた。ここで確認しておきたかったことは『進撃の巨人』のエレンが友愛を捨てることは他の作品との比較からも分かる通り、昨日考えていたほどには珍しいものではないのかもしれない、そのことである。ちなみにぼくは『91days』も『進撃の巨人』もどちらも好き。今日のところは『進撃の巨人』についてだけ考えよう。

 友愛を捨てる物語が珍しくないのだとするとぼくは人間ドラマとして何に感動していたのか?珍しいことでなくてもこころは動く。それはそうかもだ。やはり、幼馴染、同期との断絶はジンワリくるものがある。それだけだろうか?

 昨日、書いた内容に重なるが、「友愛」を捨てるに値する「自由」とは何か?このことかもしれない。だって、やっぱり気になる。エレンの考える「自由」ってなんなのよ?この問いはぼくが勝手に今日から『進撃の巨人』の3大ミステリーのひとつに認定する。残りふたつも思いついたら、この日記に書き残しておこう。

 あるいは別の問い方もできるかもだ。「友愛」と「自由」があちらをたてればこちらがたたぬ式の比喩的な二律背反の状態に置かれたとき、なぜエレンは「自由」を選んだのか?同期のだれにも継承させたくない、これでは答えになっていないと思える。しかし、この問いにしてみたところで、結局はエレンの自由観が謎であることには変わりない。うーん、作者はここは最後まで描かないのだろうか?知りたいような、知りたくないような。あまり、期待せずに結末を待とう。どちらかといえば明確には描かないでほしいけれど…

 おまけといっていいのか、エレンが自由の奴隷になっている論?がなんとなく分かってきたような気がする。「エレンは自由の奴隷」論を唱えるひとの「自由」とエレンの「自由」はおそらくその内実が異なる。自由観の違いが根底にあるのではないか?まあ、余計な話だったかもしれない。

 

 ※作者が「地ならし」を漫画で描きたかったので、そこから逆算して物語られたというようなメタ視点をぼくはとりません。ぼくにとってはそのような解釈は面白くないからです。ただし、そういう視点で作品を見ることも重要だとは思います。たしか、「麒麟」という文字を書きたくて執筆された小説があったような気がします。いや、そんなものはないかもしれません。