忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

先日の続き メモ

 ブロガーさんのラジオを寝る前にいくつか、まとめて聞く習慣がついてきたかもしれない。それであることに気づいた。先日、「ガチャ」の話題をメモにのこしたが、ぼくは自分が「ガチャ」であたりではなく、外れのほうをひくと思い込んでいるふしがあるのかもしれない。だから、「ガチャ」に不条理という含みを持たせてしまったのだろう。そして、それは裏を返せば、ぼくもあたりをひきたいということかもしれず、あたりをひければ、気が楽になる、安心するという感覚かも。心理的ハードルが低い云々はちょっと的外れだったかもだ。で、そのあたり/はずれの基準は自分のものさしではなく、自分ではないだれかのものさしに依拠しているのだろう。

 それじゃあ、自分にとってのあたりはなんだろね。と考えみるとたしかに「ガチャ」問題の突破口がみえてくるのかもしれない。この感覚はもしかしたら、私小説的なものと逆向きなのかも。私小説は、というか、もっと広く文学はといってよいのかもだが、狭い入り口(自分)から入って広い出口(普遍性?)に至るという型があるように見えるけれど、で、それゆえ、多くの読者に読まれる。

 欲望が主題であれば、ということか。

 また、書いていてよくわからなくなってきた。

 ただ、文学は毒にも薬にもなりえると思うが、その解毒というものは実際上は、上記の狭い入り口からはいって、広い出口を探すとは逆向きで行われてるような気もする。行ったり、来たりしているのもだ。(ぼくは書かないので、読むほうの話をしている。)

 とりあえず、ほっておこう。

 

 歴史小説について

 今回、アニメ『平家物語』を見る前に小林秀雄がどう読んでいたのか?を確認してみようと思ったのだけど、『無常という事』は捨ててしまったみたいで確認できなかった。なんか、随分と野蛮な感想だような記憶がある。月に関する記述があったような、なかったような。

 月の話題をひとまず忘れて、なんとなく野蛮とぼくが感じたのは、自分が近代的感性につかっているからか。

 鴎外の『阿部一族』もへんてこな小説だと思っていた。これもまた野蛮なお話だと思った。殉死に関するところだけでなく、野蛮。むしろ、殉死が野蛮であるか、どうかはよくわからない。

 歴史感覚というものは難しいのかも。ないものねだりをしても仕方ない気がするけれど、それでも、おもしろいと思えるのは不思議だ。へんてことかいいながら、『阿部一族』もおもしろかったわけだし。

 『鎌倉殿』はみてない。北条政子はどう描かれているのだろう。

 

 最近は夜更かしが続いていたし、今日くらい早く寝よう。

 『化物語』は羽川翼のお話を声優さんの朗読で聞いてみたい気もする。(「つばさタイガー」)

 

 正しい経典の読み方?について

 経典に限らなければ、ぼくにも思い当たることがあり、とはいえ、吉本の『最後の親鸞』をぼくは経典的に読んでいるかもしれない。で、さらに誤読しているような気もする。

 ぼくの場合はたんに読めていないだけかも。

 一般的に?意図的な誤読というものは可能であるとは思う。読み替える?換骨奪胎。しかし、そうした意図的な誤読と純粋な誤読を比べて、後者が劣るというのもちと違う気もする。

 どちらにも、誤読を誘発した契機というものがあって、その契機は存外、おなじようなものではないだろうか、と。別な言い方をすれば、ある人に誤読をさせるには必然性があった。その限りにおいて、意図的な誤読と純粋な誤読に違いはない。(ぼくのように読めていない事例は除く。)