忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

そもそもの誤解

 ・マスク(イーロンではなく、顔につけるほう)論争をみて、思ったこと

 自分が関心をもって読む文章以外は丁寧に読んでもらえないのは当然ではないだろうか。また、関心がなければ、だれかの文章を継続して、読むなんてこともない。で、その継続して読むことによって、その人の問題意識の核に気づく。たぶん、明後日の方向から批判が来る場合は、問題意識のズレに起因するのでは。実りのある議論、こういう発想だけになったら、それはそれで貧しい世の中と思うが、ともかく、そんな議論を期待するのであれば、問題意識の共有がないと難しいのかも。

 ツイッターは誤解、誤読がデフォかもだ。

 チャット時代のネットの光景とか、ぼくは知らんのだが、チャットのほうが誤解はなかったのだろうか。ゲームでのチャットなら経験はあるか。でも、それも、すぐスカイプにとってかわった。その後はぼくのほうがゲームをやってないのでわからん。反射神経の異常な低下に涙、予測で動くのも疲れるのでやめちまったのだ。まあ、それはいいや。

 関心ないのに絡んでしまうのはなぜか?という問題もあるか。技術的に容易になったということかしら。

 

 ひとさまを「自称リベラル」(「Jリベラル」)と揶揄していたのに、自分が自称なんたらと揶揄されると、そういうことばを使う人間は知性が低いとか、よくわからん。というわけでもなく、人間の頭の限界を感じる。頭の精度の高い人とは、個人的な印象では、この手の矛盾がない人か。たまにいるが、人間離れした怖さみたいなものは感じる。論理的思考だけではなく、記憶も必要だから。ぼくの場合、記憶のほうがさらに頼りない。

 まあ、日本のリベラルはとくに問題が多いから、そういうめちゃくちゃな批判は許容されるべきという意見が世間の大半を占めるのであれば、ぼくは「じぇいりべらる」として、その意見を甘受しますが、3日で忘れると思います。

 

 あまり、精密に分類、整理が進むとさらにつまらなくなるとおもうけど、ツイッターと限らず、ネットにおける議論は形式化の一途を辿っているのかもしれず、これもまた、技術によって意図せざる変化を遂げた結果であるなら、もう後戻りはできないのかなんて、朝からたそがれていると、なんだかどーでもよくなってくる。とりあえず、そういう形式化したことばの往復はおもしろくないとは思う。