忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

夏アニメ メモ

 『リコリス・リコイル』11話を見た。

 おもしろかった。過去話を見直したい。

 もぶっこリコリスとたきなの関係。

 

 マジマの目的はふたつ。日本社会のかりそめの平穏を打ち破る。これがDAがらみ。もうひとつはアラン機関解体。

 

 DAが無能説について

 無能であるかのように描いてるわけではないと思う。

 DAにできることにも限界がある、とぼくは見ている。ちと違うか。もともとあの社会に無理があったのに、マジマの宣戦布告により、その限界がだれの目から見ても明らかになり、DAでも最早、対応しきれない、というほうが正確だったかもしれない。

 本作中の日本社会の混乱は、ウクライナで起きたことを見て、戦後民主主義?なにそれ?状態で興奮のあまり、正義の大合唱が始まった様子に重なるように見えなくもない。

 あるいは、コロナ禍における喧噪にも重なるのかも?

 ただ、ぼくはDAは学校のように見える。

 リコリスたちが学校の制服を着ているからということもあるが、ミカは先生と呼ばれているし、学校っぽく見えるように描いていた。しかし、当初のぼくの見方で見当はずれなところもあった。その学校的なところからの巣立ちがメインテーマと思っていたので。これはぼくがそういう話が好きなだけで、希望的予測だった…はずかし。

 それをひとまずわすれ、もうちょっとDA学校説の話を進めよう。

 殉死したリコリスについて。学校にうまく適応できない生徒?あるいは、今の学校教育が社会へとつながっていないと見れそうな気も。教育サイドの問題というよりは社会サイドの問題というと語弊があるか。しかし、DAが疲弊しきっているように、日本の教育現場は疲弊しきっているように見える。

 死は、この場合、比喩ということなる。で、この意味で、たきなも、ちさとも、うまいこと社会に適応でてきていない?

 ちょっと混乱してきた。学校と社会をごちゃごちゃにしてしまったな。めんどくなってきたので、また、今度、考える。

 

 以前、書いたメモで、ちさととたきな、モブリコリスの立ち位置がよくわからないと書いたが、ぼくの理解が足りてないだけだったかもだ。

 

 そういえば、『白い砂のアクアトープ』でも、副館長無能説を見た気がするけど、この作品でそこを論点にするのにぼくは違和感があった。物語がそれで損なわれるとは思えなかった。

 『リコリコ』におけるDA無能説でも、同様。

 

 『ようこそ実力至上主義の教室へ』10話

 おもしろかったといっていいのか?でも、おもしろかった。

 綾小路というキャラには凡庸を感じない。

 堀北と最終的には対立するのか?

 櫛田、軽井沢には凡庸な悲しみがあるとぼくには見える。自分を見ているようで、悲しくなるな。まあ、そのふたりとぼくはちっとも似ていないと言えるが、方向性が違うだけで凡庸なのだ。

 こういう作風のアニメ、ぐりぐり精神を削りにくるアニメはいいな…とても心地よくないけど、よい。つーか、若い人も、きっとこれを見て、ウオーーーーーーってなってるんだよね。うおーーーーーとはなってないか??

 

 『ルミナスウィッチーズ』に関するぼくの勘違い

 ジニーの飼っているペット?ヘンテコな鳥、モフィーはネウロイの幼体と思っていたけど、違うんだろか?これはもう最終回はうおーーーーってなりながら、見るんだろうと予測していただが…どうも、違うっぽい。

 ぼくはよくこーいう早とちりをする。特技だ。勝手に盛り上がってしまう。

 『色づく世界の明日から』も、早とちりで瞳美が色を取り戻すことはないのかと勝手に盛り上がっていた。でも、この時はちと違うか。ぼくの予想通りはならないよね、と思っていたな。

 

 「色づく政界の明日から」と誤記しかけた。発情する政治家の話か。

 瞳美は発情していた。

 

 余計なお世話と承知で一言

 『リコリコ』のマジマが左翼的という見方について。たぶん、ぼくよりもずっと若い人の見方かしら?異論ではないし、間違っていると断言するつもりもないが、ただ、どちらかといえば、平穏な日本の欺瞞を暴くというのは右翼的なモチーフのような気がする。ネットで探せば、市ヶ谷で訴えた文学者の演説が読めると思う。

 いや、やっぱ余計なことだったかも。