冬アニメ メモなど
先日は散歩日和とか軽率にも書いてしまったため、意地になって雨が降り、風が吹きつける中、川辺を散歩した。風邪はひかなかったようで結果オーライ(死語)。
『進撃の巨人』
終盤は話が凝縮されているとアニメを見て気づいた。
けっしておもしろくないわけではない。共闘への流れのあたりは見ていて、ちょっと悲しくなった。
ラストはどうするんだろう。
そういえば、「地ならし」を行ったエレンに対する反応をネットで確かめていなかった。ご時世からも厳しい反応がおおいのだろうか。ご時世でなくても、連載最終回時でも、厳しめの反応が多かった気がする。
その時にぼくにとって腑に落ちなかった点はすべてを俯瞰して、もっといい道を選択できたはずだというような意見に関してだった。俯瞰した視点をとれるということに違和感がある。読者とはそういうものだといえば、そうかもしれんけど…
それ以上に疑問を感じたのは、エレンが過去への干渉が可能と明らかになり、偶然、訪れた悲劇は実はエレンの手によるものであったという示唆がなされたわけだが、そういうものを茶番と評する意見に対するものだ。
ぼくもけっこうよく茶番とかいってしまう。だが、くだらないという含みももたせるが、それだけではなく、不可避な茶番というものはあるだろうと思っている。さらにいえば、茶番だって必死にやる場合もある。エレンにしてみれば、必死にやった茶番という見方があてはまるようにも感じた。
『時光代理人』は12話が最終回だったようだ。続編はあるのだろうけれど、随分と長いプロローグという理解でいいのだろうか…
春アニメは
『まちカドまぞく』があった。それ以外は未確認。
「信頼のできない語り手」について
ブロガーさんのラジオに関する話題。
この手法はなにを可能にするのか?なにを語りうるのか?
たまーにぼくは「信頼できない語り手」と規定して、小説を誤読することがある。
たとえば、登場人物の本人による自己イメージとぼくがその人に対して抱いたイメージにズレがある時とか。
でも、言われてみると、というのはそのラジオでいわれていたことだが、人間の認識というか、思考というか、意識というか、そうものにはなんらかの陥穽があるのかもしれない。それをぼくはなんらかのズレと読み取っていただけかも?
混乱してきた。寝る。
ネットに残す記録
100年後とかに後世の人はネットに残された記録とか、どう読むのだろう。
少しだけ、ぼくも書き残しておこう。ぼくが思っていた以上に戦後民主主義的価値観に対する反発が強かったみたいだ。ぼくにもそれは多少、あったけれど、想像以上だった。ぼくはコロナ禍を振り返ったとき、戦後民主主義的価値観への疑義が提出されると思っていた。その点では、まったく異なるところから全然、予想もしないような形でそれが今なされている。
まあ、なんだろう。ぼくにも橋下さんのような感覚があると思う。戦後民主主義にもやっとした感情を抱きながら、その実かなりその価値観に傾倒している。それにしてもすごい批判が殺到しているんだな、と。たぶん、これまでの維新に対する反発とかものかっていろいろなところから集中砲火を浴びている感じなのだろうか。
あと加藤登紀子さんとかも批判されているのか。
よくわからんけれど、社会がいい方向に変わるといいと思う。と書いておいてなんだが、複雑な気分だ。
ぼくは以前にも書いたけれど、自分の視線をウクライナに重ねようとは思わない。また、ロシアを悪とみなすこともできない。
戦前の日本も、オウムも、この点では同様である。
なんなのだろう。度々、こういうことが起きるんだよな。