忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

先日の続きなど

 回顧について

 回顧、自己の記憶の再構成において、なんらかの陥穽があり、それが文学になるという理解。疑似回顧物語という形式も、信頼できない語り手という手法も、そういうものが出てくるゆえんはその陥穽にあるんでないの?と。結論ということでもない。

 で、その陥穽について。時間論から永井均さんの議論に関心をもっていくつか著作に触れたその結果、そこから副産物をえて、この辺の事情に少しだけ整理がついたような、つかないような。まあ、哲学の本をかなり無理して読んでいるので、わからんところがたくさんあるのだが…

 記憶の再構成だとか、語りだとかで生まれる自己イメージ以前にたぶん、それを支える初発の原理として「独在性」というものが端的にあるのだろうけれど、人間はそこを錯視して、副次的な記憶だとか、セルフイメージみたいなものを重要視しているのではないか?という問い。転倒がおきたと見てもいいかも。そこを錯視した人が文学のほうへ行くというか。文学は、とくに私小説はそここそが大事なんだとやってきたのだろう。

 でも、不思議だ。ぼくなんかはその副次的な要素のほうにおもしろみを感じるのだから。おもしろいという感覚自体にもこういう陥穽があるのかも。というか、ブロガーさんがラジオで言及した通りで人生というものが錯視の上に成り立っているのかもしれない。また、考えよう。よくわからなくなってきた。

 そーするとなんかもっと深いところで価値観を支える原理みたいなものが必要に思うけど。「存在倫理」みたいな。

 

 ああ、こういうことを書いていて思い出した。

 ぼくはある種の批評を読むと感動する。先日、Aという前提から出発して、Bと結論する構成の場合、Aの確かさに信頼がおけないとわけのわからん話になると難癖をつけたけれど、たまにAという前提を感じさせるような批評があるので、その説得力はどこからくるのかといえば、文章なのだけれど。論理、意志などなどいろいろな要素がからまっているのだろう。

 別に批評に限らない。物語であっても、与太話であってもなんでもそうかも。

 

 と書いていて、また別のことを思い出した。

 いわゆる「お笑い」について。まず、ぼくの雑な印象論として、日本人がテレビに「お笑い」を求めているという感覚がわからない。ようはテレビをつけないと日常に笑いがないとは思えないからだ。それとも、なにか…日常にある笑いは洗練された芸ではないのでテレビをつけるということか?

 様々な面で苦手な映画であるが、『男はつらいよ』はそこはいいなと思える。日常の笑いがあるので。博の冗談とか、ちっとも洗練されたものではないだろうけれど、それでよいんでないの?と。

 苦手な側面について言及しておくと、やたらと出てくる貧乏話。比較的豊かな時代に育った世代だから、見ているとなんとなく後ろめたいみたいな感覚はあるかもだが、そればかりではない。ぼくのじーさん、ばーさんは日本が貧しかった世代の人間で、日々のお金のやりくりとかにも頭を悩ませていたとおもうが、たぶん、みんな貧しかったから、その貧しいという自覚があまりなかったのだと思う。そのせいかは知らんが、彼らの口から貧乏話を聞いたことがない。がきんちょのぼくにそういう話をしても仕方ないと思っただけかもしれんけれど…それに豊かになっても、日々のやりくりにあくせくするみたいな日常には変わりはないように思える。お金のつかい先はだいぶ変わったか。よくわからん。

 脱線した。

 ともかく、テレビをつけないと笑いがないというのは変だと思う。それに洗練された芸でないと笑いとは言えないというのも変だと思う。

 でも、話芸というものはあるだろうとは思う。ぼくはお話をするのがあまり得意ではないからそういうものへの憧れはあるかもだ。

 

 ※日常の笑いと「お笑い」は異なる領域のものということか。後者は独立して、技芸としてこの世にあるということなのだろうか。ぼくは連続したものとみていたけど、それが勘違いなだけだったかもだ。