忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

先日の続き(時間感覚)

 時間(時制)感覚について

 はじめに断っておくと時間に関する精緻な考察を通じて、なにかを掴むことがぼくの目的ではない。日常生活の中で時間がどう流れていると感じるのか、その感覚について考え、文学やアニメの中でそれはどう表現されているのかについて知りたいと思っているのだ。

 

 過去、未来について

 過去 実際の過去と回顧される過去との間のズレ

 未来 これから訪れる未来と意志、予測として表現される未来との間のズレ

 別々に考える必要があるのかも。

 過去については結局、島村の言う通り(といっても若干、ぼくの勝手な解釈が混ざるが)、頭の中で行われていることは記憶の欠片(桜のはなびら)を集めて、再構成する過程で、いろいろなものが抜け落ちるから、ズレが生じるのだろう。

 未来についてはよくわからん。ただ、自分のあずかり知らぬところで、何者かによる導きがあることによって、ズレが生ずると生活感覚では見るではないだろうか?わからん。

 意志、予測は頭の中でやっている操作はスタート地点は同じかも。現状認識から始まって、そのただの延長が予測で、可能な範囲内で望むべき延長が意志?今の天気を見て、明日は晴れるといいな、みたいなの。まあ、これはよくわからんから、どうでもいいや。

 ただ、まあ、結局、過去も未来もある地点に至ってから、思い返した結果として、実際のズレは生じるのか。うん、混乱してきた。ただ、おそろらくそうなのだと思う。

 過去のほうがわかりやすいけど、未来も未来を頭に思い描いていた自分をその未来に到達した時点で思い返したときに生じるズレみたいな。

 そんで、自分の力だけではどうにもならないみたいな感覚が伴っているのが、時間(時制)感覚のおもしろいところなのだろう。回顧に付随する不思議な感じの正体はこれだ!とは言い切れない、もやもや。というのは、人間の頭の働きにそもそもそういう志向性があるの?ないの?みたいな。あるまとまった統合的な理解のために余計なものをそぎ落としていくみたいな、と書くとなんだか合理的な営みのようにも思えるが、実際はそこまで合理性なんてなし…めんどくせーおわり。

 

 で、過去、未来とぐだぐだ書いてきて、最後に現在について。

 現在というものはないのだと思う。ズレを確認しようがない。やっぱ、時間というのは文字通り、間というか、持続というか、経過が必要となんとなく人間は思っているのだろう。

 

 生活の中で流れる時間については大体、こんな感じで強引に終わらせて、本題はそれが文学なり、アニメなりでどう表現されるのか。最近、はまっている絵画では?

 作品ごとに見るしかないか。

 ひとつは以前から気になっている作者による疑似回顧形式の物語。(これは作者の回顧であることが明示される必要はない。)

 絵画で繰り返されるモチーフに時間の流れを見てとれそう。でも、それはなにを見するのか?描かれたもの(被写体)の時間の流れ?画家の身体の時間の流れ?よくわからん。両方もありうる。

 ちょっと関係があるのか、わからないけれど、天体の映像で通時的なやつ。あれはおもしろい。夜中にたまにテレビをつけるとやってる。人間ってほんと次から次へと変なことを思いつくもんだなと感心する。

 

 写真、絵画は今か。

 それを連続させるとアニメーションになるのか。そうすると再構成という、回顧と同じような操作が頭の中で行われているのか。そうか。この日記にアニメの感想を書くようになって以前よりも作品に対する理解が深まったとおもったのは、これだったのかも。

 自分のことばで文章化することで理解が深まったというよりも、さっき見たアニメの内容を思い返すことで再構成の作業した結果、理解できたと勘違いであっても、そう思えたのかもだな。ちがうか??

 小説なんかでもそうかもだ。読み終わって、全体内容を自分なりに整理して統合的な理解を再構成したとき、わかったような気になるのかも。

 人間の頭ってキモいな。