忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 山田五郎さんの動画を見る。

 ポール・セザンヌ

 絵が上手でないのか、どうなのか、ぼくにはよくわからなかった。アンリ・ルソーが上手くないことはぼくにもわかったけれど…

 写真が登場して、絵というもの対する感覚、上手い、下手の感覚が変わったと思っていたけれど、そうでもないのかも。写真が絵に及ぼした影響というのはもちろんあるんだろうけれど、ルソーとか、セザンヌは別に写真が登場しなくても、ああいう絵を描いたような気がするような、しないような。

 いずれにしても、セザンヌにはルソーにあるようなわかりやすさはないと思った。ぜんぜん、わからん。

 

 ポール・ゴーギャン

 幻想と現実が同居する?今では、というかぼくの好きなアニメでも、よくそういうシーンがある。

 疑問 ゴーギャンの絵はゴーギャン視点、なので鑑賞者はゴーギャンの視点を共有する。

 アニメでは?制作者の視点と登場人物の視点、ふたつの可能性を鑑賞者は考えても、おもしろいのかも?というか、きっとそう截然と判断できるものではないような。曖昧な解釈で曖昧に楽しむ。

 あ、ゴーギャンの絵でも同じかも。絵画の中の人物の視点なのか、ゴーギャンの視点なのか。

 

 アンリ・ルソー再び

 アンリ・ルソーの描くこども、もしくは、赤ん坊の顔。怒っているように見える。なんだ、これ?でも、たしかにこどもが普通にしていると怒っているように見えないこともないのかも?

 絵を描く楽しさみたいなものを伝えてくれる人なのだろうか。

 吉本のいう「文学の初源性」というのも、これに感覚的に近いのかも。しかし、読むほうとしては楽しい話が文字通り楽しいわけでもないし、底抜けに暗くてもかまわないわけで。

 

 「読む」でも思ったけれど、「見る」ってのも結局、何をしているんだろう。

 

 あと、個人的におもしろかった話は現代アートに限らず、昔から絵画は投機の対象だったというもの。 これはなにかが発展するためには必ずお金が必要ということなのだろうか。むしろ、投機の対象にならなくなったとき、美術はピンチになるということか。