忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

反権力=反空気

 以前、何かの折、佐々木俊尚さんの文章をはじめて読んで以降、度々、目に留まったら、読んでいた。といっても、継続して、読んでいるわけではないので、どこら辺に問題意識があるのかは実際にはよくわかっていない。

 ただし、オールドメディアに対する不満は理解できた。それでも、ぼくとは若干、認識に差はあるとは思ったが、この点ではぼくはもっと書生論くさい認識を持っている。佐々木さんの批判するリベラルメディアも、ぼくから見れば権力側にいる。

 

 それはともかく、今日見た記事。無料部分しか見ていないが、多くの部分に異論はない。

 

 昭和の戦争についてはよくわからないので、今日のメモではコロナ禍に限定して話を進めよう。

 ひとつだけ、ぼくが見たことのある戦争映画では絵にかいたような反戦主義者は出てこない。徴兵逃れは卑怯者の所業のように描かれていた。世代の差か…

 

 コロナ禍における空気の支配

 ぼくはふたつのことが気になっていた。

 ひとつはみんな(ぼくも)、だれに命令されたわけでもなく、マスクをつけ始めたこと。もうひとつはツイッターで、これも、きっとだれに命令されたわけでもなく、ワクチン接種の報告をしていること。(報告はぼくはしない。そもそもツイッターをやっていない。)

 どちらもぼくにとって迷惑だみたいな話をしたいわけではない。マスクにはそれなりの効果があり、ワクチン接種後の容態の報告などは多くの人にとって有益な情報ではあるだろう。ただ、単にすごく不思議だった。なんとなく、そういうことになっています感。これが「空気」というのがぼくの認識。

 なので、空気の支配は必ずしも悪いことには思えない。

 ただし、同じようにコロナ禍でその「空気」がヤベーと感じることはあった。五輪開会式に関するゴタゴタがあったときだ。ぼくも、その空気に流され、この日記でそのことを書いた。なので、消さずに残してある。これはネット空間限定の熱狂だったような気もしている。昭和の戦争でもそうだったのではないか。本土が空襲されるまでは自分たちがおかしいことに熱狂していたことに気づかなかったでは…

 あ、また、話が脱線した。

 

 面倒なので、結論から言ってしまおう。

 反空気というのは無理だと思う。空気が支配することを前提として社会を設計するしかないような。というか、普段はみんなそうしているんだと思う。無意識にそうやっている。それで、日常は困らない、というか、おかしなことには滅多にならない。ところが、臨界点を突破して、イカレた領域に足を突っ込む場合が、おそらく偶発的に発生し、その自覚が生まれないのが問題。とすると、そこはやはり、ネット空間の空気なら、今どきのことばでいうとインフルエンサー冷や水を浴びせてもらうしかないのかも。で、それも期待できないとなったら、使い古されたことばだが、「歴史の必然」として受け入れるしかないかも?

 あとは、社会を設計する際、どこかで他者の行動を促すことを要するとなるとぼくには忌避感があるが、これはもうあきらめるしかないのだろうか。これまで通り、なんだかんだ、折り合いつけてやっていくのだろう。

 まあ、よくわからん。

 繰り返すが、社会の空気の支配をぶっ壊すのは無理な気がする。なので、個人の生活空間の中でおかしいと思ったら、その範囲で空気に逆らってみるしかない。しつこいようだが、その生活空間での反抗は多分、社会的には意味がない。それでも、やるんだよ!

 

 タイトルの自己解説

 日本では権力の実体が空気であるなら、反権力=反空気だと思った。

 

 コロナ禍における空気の支配 番外編

 『鬼滅の刃』の爆発的ヒット

 ぼくのこの作品対する感想は控える。