忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

そろそろチョコミント

 涼しくなってきたと油断していると忍び寄る残暑の影。

 ただ、もうアイスキャンディーという感じでもないので、チョコミントにでも変えようかなという季節。本格的に肌寒くなってきたら、キャラメル味か。

 

 「私がなぜ私であるのか」問題について。

 この問題についてはちょっとわからないところがあった。なので、頭の体操みたいなもんでしょと思っていただけど、今日、多少、理解することができたかもしれない。精緻な哲学的考察をしようという話ではなく、日本人と宗教観みたいな話として理解した感じかも。

 八百万の神がなんたらかんたらみたいな話はぼくにはよくわからない。日本人にとって神はそうのように存在しているのだと言われれば、そんなんだろうという程度の認識だったが、今日、そうとばかりはいえないのではないかと思った。

 ツイッターを見てのお話なのだけどね…

 『あだしま』にある感覚、神的な存在の臨在。安達と島村というふたりの女の子の愛の物語なのだが、お互いに相手についてあれこれ、考え、独白で語っているのに一向にその内容を伝え合おうとはしない。

 もし伝えたら、恋愛が成就してしまい、それでは物語が終わってしまうから、メタ的な意味で、そうしないわけではない。むしろ、お互いに伝えあってはいけないことばであるのだ。かといって、お互いのこころの中だけにしまわれているものでもない。聞き手はいる。(聞き手は読者であるとは考えないでほしいです。ここではメタ的な理解ほど野暮なものもございません。)では、だれに語っているのか?神のような存在だろう。また、それへの応答、告白、祈りのようにも聞こえる。そして、そう聞こえるとき、ことばに真実が宿る。(だれに聞こえるのか、という点は大問題であるかも。で、以前、この作品には読者も必要ないのでは、という極端な考え、「作者の死」をパクって「読者の死」という考えに行きつきそうになったが、読者が存在しないと小説の続きが書かれないのでは?と思い直し、その考えを突き詰めることは止めにした。自分でも困ったものだが、度々、ぼくはこういうおバカな考えにとらわれそうになる。)極端な見方が許されるのなら、地の文で展開されるすべての独白は神への祈りのように読める!

 以上の話はこの日記でも繰り返し、しつこく書いてきた。

 で、なんとなくわかったのだ。上記のような神のような存在を西洋的な神と必ずしも同一視はできないのだろうけれど、かといって八百万の神みたいなものとは明確に異なる存在。そうしてみると、日本人の宗教観として通説?として流布しているものはそれほど確かなものではないな、と。

 で、冒頭の話に戻るのだが、そういう神的なものの臨在を感じる私という存在について。なぜ臨在を感じてしまうのか?ぼくは試されているんだろうな。試されているというのもすこし違うかもだが、適切なことばが思いつかないので…それはそれとして、神の前に立たされているのはぼくの「存在倫理」。「私がなぜ私であるのか」問題も、この視点からなら、多少は理解できるかもしれない。そんなことを思った。ぼくがぼくがである意味をぼく自身だけでは決めきれない。さらには、きっと、ぼくと具体的に関わっている生き物にも決めきれない。それならだれが?…ってことか?

 

 それともうひとつ、以前から持っている疑問。この世界にあるとされる法則性は神を前提としているのか。ノーム・チョムスキーのいうUGがよくわからない、とぼくがいう時、いろいろわからないだけど、そのわからないのひとつがこれ。