『安達としまむら』のちょっとえっちなイラストについて 加筆修正
早起きして、修正した。
定期的に『安達としまむら』ファンの方のブログをのぞいている。
そこでえっちなイラストについての言及があった。おおまかな見方としてはその方の見方とぼくは変わるところがない。肌色面積の多少とキャラの魅力には関係ない。作品の魅力にもなんのかかわりもない。もっといっちゃえば、安達を男子高校生の女性化と見るのはキモい。
まあ、ただ、これもぼくのごく個人的な見方でしかないといえば、そうだし、その話を少しだけ書いておこう。
まず、安達が島村を、島村が安達を、それぞれがお互いをえっちな目で見るときってのはあるだろう。そのときの彼女たちの瞳はどんな感じなのか?みたいな部分には関心があるかもだ。なので、修学旅行の話は面白かった。まあ、修学旅行でもっと好きな場面は他にある。霧の場面、島村とパンチョの会話のほうが好きかもしれない。
脱線してしまったが、ともかく、ぼくは彼女たちをそれぞれにえっちな目で観察することはない。つまり、性愛の対象としては見ない。
しかしだ。ふたりでえっちなことをしているところを見たいか?と聞かれるとちょっと見たいかも。でも、えっちな目で見るのとも少しだけ違うかも。正確には見たいよりも聞きたい。そこで彼女たちがどのような独白するのか、そこへの関心がある。彼女たちがお互いに伝えあう部分とそれぞれのこころの中にだけしまっておく部分があるはずで、そこを知りたいだけなのだ。
やっぱり、この作品は主人公のふたりだけに限らないが、独白に魅力があるのだと思う。ヤシロの存在が特異であるのは、その独白がないところかも?
いずれにしろ、微えっち路線を『安達としまむら』には求めていないかも。
少しだけその独白の特異性についてふれておこう。
多くの反論が予測されるけれど、この作品の雰囲気で肝心かなめの部分は神のようなものの臨在を感じさせるところにある、とぼくは見ている。「不良」を自称するわりには、不良然としたところはなく、悪事といっても、授業をサボって卓球を楽しむ程度のもので、ぐうたらなところもあるが、むしろ生まじめということばのほうが彼女たちにはふさわしい。(その生まじめもおかしな方向に…だったりするのだが)彼女たちの生き方がおおきく道から外れることがないのは神のような存在、あるいは日本人がよく口にするおてんとうさまを意識しているからなのか?おそらく、それはない。この作品で神のようなものが存在するのであれば、別のところである。
それではどこか?独白にいるのだ。彼女たちの独白が特徴的であるのは、安達が島村について、あるいは、島村が安達について語っているときでさえ、お互いではない、ほかのだれかに囁いている感覚があるように聞こえる点だ。あるいは、そのだれかの声を聞き、それへの応答、あるいは告白のようにも見える。しかし、そのだれかを神と断定するのはちょっとおおげさな感じがするので、神に近しいなにかと今のところは考えている。
で、その雰囲気というか、世界観がベースとしてあって、そこにえっち路線がマッチするか、どうか?DVDの特典小説を読めていないから、実のところはなんにも言えないわけだが、それでもえっちなシーンをぼくはえっちなものとして読むことはないだろう。まあ、そもそもえっちなものとして読むという態度がなんであるかもよくわからん。
一方で、作中で度々、安達と島村はおのおの小さな祈り事をする。それはかならずしも恋愛の成就だけを祈念しているわけでもなく、ときにおちゃめだったりして、そこがぼくのツボなのだが、それはそれとして、大事なことは祈っていること、また、それに付随して祈る対象がいるということだ。そして、この世界の神に近しいなにかには抜けたところがあるらしく、彼女たちの願いを完全な形では叶えてくれない。そこも好き。というわけで、この作品における祈りという行為は世界観にマッチしていると思う。百合作品を百合であるがゆえに「尊い」と形容するのは好きでないが、『安達としまむら』はその文脈ではなく、その世界観から尊いということができるかもしれない。
結論、ひとは一生で平均何回くらい「えっち」ということばを文章で使うのかは知らないが、もしかしたらぼくは一生分の「えっち」をここ数日で使い切ったかもしれない。回数券で補充の予定はない。
追記 タイトルの「加筆修正」の文言でえっちなイラストを期待してこの日記をのぞいたひとにはごめんなさい。ご期待に添えるようなイラストはございません!