忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 『安達としまむら』の原作は現在、5巻まで読み進めている。ちんたら読んでるわけだが、以下メモ。

 

 全体として回想になっているのか?

 これは読んでいてもよく分からないなかったので、考えるのは止めた。というか、最後、完結したときに分かるのではないのかと思う。ただ、文章を自分で書いていても思うのだけれど、語尾が単調になるのを嫌って、時制を操るみたいなところはあるのではないか。文学表現における時制のうんたら、かんたらみたいな研究はありそうな気がする?まあ、ぼくは文学は素人なので、よくわからないし、言語学も素人なので、これまたよくわからない。なので、そういう研究があるのなら、勉強してみたいと思った。

 

 「生きづらさ」問題

 随分前のことになるが、いつ頃の話だったか、芥川賞の選考委員が選評の中で、現代人の生きづらさをテーマにしたような小説にはうんざりだと言っていた記憶がある。本来は問題ではないことを疑似問題化して、さも人生の大事を説いている風を装おうのが気に入らなかったのか?

 その発言の真意はよくわからなかったが、そういう読み方をするほうが現代の生きづらさを過大評価しているようにぼくには思える。そんな生きづらさの源泉たる社会からの抑圧やら家族からの抑圧やらが作中のひとを押しつぶしているなら、そんな読み方にもなるのかもしれないが、ぼくの読んできた小説はそうではなかった。なんらかの抑圧があっても、なんだかんだ生きているひとが描かれているのだ。安達や日野の家庭環境だとか、島村の内面だとかに着目すれば、本作も生きづらさのようなものを描いているのかもしれない。が、やっぱり彼女たちも生きている。

 ぼくはそこで生きづらさではなく、生きているほうにアクセントを置いて読んでいるのだけなのかもしれない?まあ、でも、この作品の良さといっていいと思うが、生きづらさを深刻な感じにしないところ、そういう深刻さを感じさせない表現に独白という形式をとりながらもなっているところ、そこをぼくは好きなのではないかと思った。

 ただ、こころの持ちようで深刻なことも、そうではなくなるというような話ではないだろう。書いていても、よくわからない。

 えらそーなことを言いやがって、むかつくって話かもしれない。たしかに、その選評を読んで以降、芥川賞選考作品の載った文藝春秋を購読するのは止めてしまった。

 

 2期がやっぱり見たい

 5巻の川辺のスケッチとか映像で見たい。