現実はああいう世界にはならないであろうと思うので
『Vivy-Flourite Eye's Song-』10話
これまで考えてきたこととは無関係な部分が面白かった。松本博士との出会い、少年から大人になっていく過程をヴィヴィ視点で視聴者に見せたところだ。
ぼくはいまでも犬がうちにやってきた日のことをおぼえている。当たり前の話だが、当時はぼくのほうが年上だった。それなのにあっという間に年齢は追い抜かれる。気づけばかれはじーさまになっていたのだ。これはぼくと犬の時間の流れ方が違うから起きた。
さてヴィヴィの場合はどうなのだろう?人間とAIの時間感覚は同じなのだろうか?人間にとっての1年はAIにとっても1年なのか?ヴィヴィは松本少年が博士になっていく過程をどう見ていたのだろう?あるいは、松本博士と比べて自身の変わらぬ外見をどう考えているのだろう?AIに時間感覚がそもそもあるのだろうか?
こんなふうに10話を見ていたので、ぼくの見方は製作者の意図とはおそらくズレている。人間の死からヴィヴィはディーヴァの死を考えるきっかけを与えられ、ヴィヴィつまりAIが自らの意志で作曲する契機になった。そう見るのが妥当な解釈だ。
なので、EDに対する感想ももしかしたら多くの視聴者と違うかもしれない。なぜEDのメロディが寂しい感じなのか?今は亡きディーヴァを思って作った曲だから、というだけではなく、どのような気持ちで松本博士の成長過程をヴィヴィが見ていたのか、その気持ちを投影しているからではないかとぼくは見ている。ヴィヴィというか、あの世界のAIはあまりにも悲しい存在すぎる。
この作品の世界の在り様はAIに残酷だ。AIにこころのようなものをもたせるのに、老いることは許されない。作品内での一般的なAIの終末は提示されていたのか、もう覚えていないが、そういう描写はあっただろうか?この作品の世界の人類なら滅亡したほうがいい感じがする。
AIにプログラムで老いも織り込めばいい?それは悪い冗談だろう。
現実はこういう方向にはいかないとどこかで楽観しているのだけれど、どうなのか?
10話も面白かったのだけれど、この世界の結末には関心がなくなったかもしれない。