いろいろと好き勝手に書いたけど
『Vivy-Flourite Eye's Song-』について
面白いと思いながら見ていたのだし、ちゃんとした感想を書きたいと思っている。
ただ、これまでいろいろ書いてきたことは一回捨てちまってもいいかもな。
ヴィヴィはなぜ歌えなくなったのか?
なぜクライマックスで歌えたのか?
この点を考えてみようかな。これは思いつきではなく、何が気になっててこの作品を見続けたのか?を自省してみた結果、そこかなと。
『シュタゲ』をディスるつもりはないが、オチの付け方としての巧拙を見れば、『Vivy-Flourite Eye's Song-』との間に大きな差があったとは思わない。というか、作品におけるオチとはなんだろうか?オチがどのくらい作品の評価に影響するのか?もっとはっきりいってしまうと作品を評価することにはあまり関心がない。ただ、知りたい、理解したいだけだ。その理解が必ずしも作者の意図したものとぴったりと重なるとは限らないから面白いのである。また、作者の意図と受け手の理解がぴったり重なるような作品がこの世にあるとして、それを面白いとは少なくともぼくは思わない。すごい作品だとは思う。見終わると人間を止めたくなるようなすごい作品があるのだ。たまにそういう作品に出くわすので困るが、ある種の感動にぶつかっているのだろう。そういえば、つい先日もそんなことがあったっけ。
ということで、以下メモ
歌う→歌えなくなる→歌う
6話が話の転換点
3つの大段落か。
1~6話
7~12話
13話
まだ13話をちゃんと見ていない。昨日は気づいたら11:50になっていてなんか歌っているところから見始めて、わけわかめだった。
考えてみたいポイント
1~6話の「歌う」と13話の「歌う」に変化があったのか。
それとも、1~6話の間にも、こまかな変化の積み重ねがあったのか。
ディーヴァの歌がヴィヴィに及ぼした影響はなにか。
再び歌えるようになった契機。
「使命」に置き換えてみると従う→逃げる→殉じる?もしくは、「使命」をヴィヴィが自ら再定義しなおしている?「歌う」→「殲滅する」
まあ、てきとーに思いついたことを書き始めると収拾がつきそうにもない。
そんなところに着目することでなんの話であったのかを理解できたらいいなと思っている。それをいつやるか。今日は無理だな。とかやっているうちに夏になっているんだろうな。
ほんと感想を書くかわからんので
メモ書きを残す。
部分的な人格の自殺の話なのかなとうっすら考えていた。そういうものが実際ありうるのか?もっと別のことばがいいかもしれない。歌わない歌い手ってなんだろう?
外は結構人出多し。